#13

 

「そして、夜が明けると(イエスは)弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び、彼らに使徒という名をお与えになった。」

(ルカの福音書 6章13節)

はっきり言って、一般的な日本人が持っている「宗教」のイメージは良くありません。

「宗教」と聞けば、どこか人を不自由にするような、没個性にさせてしまうような、何かネガティブなイメージを多くの人は持ってしまっているのではないかと思います。

確かにそれは一部では当たっています。

イスラム原理主義者や、以前にとあるカルト団体が行ったようなテロ行為は実行していないにしても、怪しげな宗教団体は多くあります(特にキリスト教の名を語る宗教団体に多く見られます)。

それらの団体に属する信者さんたちは、特徴として、その服装、佇まい、笑顔の作り方に至るまで、何から何までも判で押したかのように統一されており、得も言えぬ不自然さを漂わせています。

しかしそれはあくまでカルト的な宗教が持っている「特殊な暗黒面」であって、全ての「宗教とされるもの」に当てはまる訳ではないと思います。

少なくとも、聖書に書かれてあることを正しく解釈し、イエス・キリストに信頼を置く信仰に対しては、それは適用されません。

何故なら、聖書の神は、私たちの目に映るこの個性豊かな世界の造り主であるからです。

神でありながら人となられたイエス・キリストは、人間一人一人の命はもちろん、個性やそれぞれの多様性、自律性を尊重されておられることを聖書が証言しているのです。

上にご紹介した聖書箇所は、イエス・キリストが70人ほどいた弟子たちの中から、かの有名な十二使徒を選抜するシーンを描写しています。

「使徒」とは「遣わされた者」という意味があり、キリストの代理人として、キリストの権威をもって、各地に宣教する使命が与えられた特殊な者たちのことを指します。

(ちなみにこの「使徒職」が有効であったのは新約聖書が完成する紀元90年代ごろまでの間だけであり、それ以降は使徒と呼ばれる者は存在しません。キリストからの直接的な権威の付与がなければ、いかなる人も使徒とは呼ばれないのです)。

使徒として選抜された者たちは、どれも個性豊かな、クセのある、いわゆる「聖人」とは程遠い、実に人間味のある不完全な面々でした。

その十二使徒を簡単にご紹介いたします。

1:ペテロ ‥‥ 十二使徒の筆頭格。本名はヨハネの子シモン。ペテロは「岩」という意味。田舎で漁師を生業としていた。率直で武骨。直情型。イエス大好きだが、イエスが逮捕された際に、「自分はイエスを知らない」と三度もイエスとの関係を否定する。しかし、死から復活したイエスと出会い、その傷が癒される。初代教会のリーダーとして大いに活躍し、最期はローマ皇帝ネロの迫害によって殉教の死を遂げた。

2:ヨハネ ‥‥ ペテロと同じく、ガリラヤ地方という田舎で漁師として生計を立てていた。かなり血気盛んなところがあり、そのことでイエスから叱られていた。使徒集団の中では唯一、殉教せずに生き残り、高齢になってからパトモス島に流刑となった。ヨハネはそこでキリストから啓示を受け、かの有名な『ヨハネの黙示録』を執筆する。

3:ヤコブ ‥‥ ヨハネの兄。ヨハネと同じく、ガリラヤの漁師であり、かなりやんちゃだったらしい。使徒集団の中で、最初の殉教者となる。

4:アンデレ ‥‥ ペテロの弟。ペテロと同じく、ガリラヤの漁師。しかし性格はペテロとは違い、結構控え目であったようである。伝承によれば、最期はX型の十字架にかけられて殉教の死を遂げたとされている。

5:ピリポ ‥‥ ペテロたちと同じく、ガリラヤ地方出身。恐らく漁師。理性的で数字に強い。最期はヒエラポリスという町で、家族とともに殉教の死を遂げたとされている。

6:ナタナエル ‥‥ ガリラヤのカナ出身であり、恐らく漁師。ピリポの友達。別名バルトロマイ。聖書(旧約聖書)に精通しており、勉強熱心。皮肉屋でもある。最期はアルメニアで逮捕され、殉教したとされている。

​7:マタイ ‥‥ 元取税人。取税人とは、ローマ帝国の庇護の元で同胞のユダヤ人からあらゆる理由でお金をむしり取る仕事をしていた者のことである。そのような日陰者の人生に浸り、抜け出せなくなっている時に、マタイはイエスと出会い、イエスの「ついて来なさい」の一声で何もかも捨ててイエスの弟子となった。彼は後に新約聖書の最初の書である『マタイの福音書』を執筆する。最期はヒエラポリスで殉教したとされている。

8:トマス ‥‥ 「トマス」とはアラム語(当時の中東地方の公用語)で「双子」という意味があり、デドモ(ギリシャ語で「双子」)とも呼ばれていた。かなり悲観的で疑り深い。イエスが死から復活し、使徒集団の前に現れた時、何故かトマスだけが居合わせなかった。それで他の使徒たちの証言を信じず、「自分は実際に触って確かめなければ絶対に信じない」と豪語した。その後に彼の前に復活したイエスが現れ、目で見てイエスの復活を受け入れた。その後、トマスはこのキリストの福音をインドまで伝えに行き、最期はその地の異教徒によって剣で五体切断されて殉教したとされている。

9:アルパヨの子ヤコブ ‥‥ 父親がアルパヨで、タダイのユダが兄弟である以外に、これと言った情報が聖書の中にはない。しかし、目に見える情報量の多寡が信仰者の質を決めるのではない。隠れたところで、堅実に他の信者たちを支え続けたのだろう。マリヤから産まれたイエスの兄弟、ヤコブとは別人である。

10:熱心党員シモン ‥‥ 熱心党とは当時ユダヤ地方を支配していたローマ帝国に反発する過激派国粋主義集団である。シモンは元々その一員であり、イエスと出会ってからはその熱心さを信仰に傾けた。最期はペルシャで殉教したとされている。

11:タダイのユダ ‥‥ タダイとは「獅子の心」という意味がある。イスカリオテのユダと混同しないために、聖書では彼を他に「イスカリオテでないユダ」、または「ヤコブの兄弟ユダ」とも呼んでいる。アルパヨの子ヤコブとは兄弟である。新約聖書の『ユダの手紙』の著者である。最期は小アジアのエデッサにて殉教したとされている。

12:イスカリオテのユダ ‥‥ 「イスカリオテ」とは「カリオテ出身の人」という意味があり、ガリラヤ地方という田舎出身の使徒が多かった中にあって、洗練された都会人であったことが伺える。イスカリオテ・ユダは使徒集団の財政係であったが、預かっていた財布から習慣的に金を盗んでいたらしい。彼は結局、イエスよりも金銭を愛しており、遂にイエスを銀貨30枚でイエスに敵対する者たちに売ってしまう。この裏切り行為によって自責の念に圧し潰された彼は、儲けた銀貨を投げ捨てて首を吊って自殺する。彼の後悔は、魂の救いに繋がる悔い改めとはならなかった。

聖書の神は多様性を愛されるお方であり、多様性を認めるからこそ、真の一致が生まれることも知っておられるお方です。

聖書の神は私たち人間一人一人が、神に造られた通りの姿で、個性的に生き、他者との違いを認め、福音を信じキリストと共に人生を歩むことを望んでおられます。

それはこの十二使徒の選抜にも表わされているのです。

またそのことは何よりも、聖書の神ご自身が、「三位一体の神」であられることに由来しています。

​次回はその聖書の神の属性である「三位一体」について、ご紹介致します。

 

#14

「私はどこへ行けるでしょう。あなた(神)の御霊(みたま)から離れて。どこへ逃れられるでしょう。あなたの御前を離れて。」

(詩篇 139篇7節)

皆さんはクリスチャンの祈りを実際に聞いたことはありますか?

​基本的にクリスチャンの祈りは、自分の魂の親である父なる神に対する個人的な呼びかけであり、祈祷書やお経のようなものはなく、自分の言葉で祈るものなのですが、それでも聖書が教える一応の型はあります。

それは「天の父なる神様」という呼びかけから始まり、「イエス・キリストの御名を通してお祈りいたします」で締めくくる、というものです。

この最初と最後の二つのフレーズさえも、その言い回しが個人によって微妙に違っていたり、バラエティに富んでいるのですが、重要なことは「全ての祈りは父なる神に捧げられるものである」ということ、そしてその祈りは、「キリストのお名前によって、聖霊(せいれい)に導かれて届けられるものである」ということです。

つまり、クリスチャンの祈りは、三位一体の神を前提に捧げられるものなのです。

(「聖霊」という単語を初めて目にした方もおられるかと思いますが、そのことについてもいずれ解説いたします)。

今ここで皆さんに知って頂きたいことは、聖書の神は三位一体の神であり、三位一体とは、

1:父なる神

2:子なる神(キリスト)

3:聖霊なる神

の3つの位格(ペルソナ:神としての存在)によって成り立っている、ということです。

「神は天地万物を造られた創造主である」とクリスチャンが語る時、それは「父なる神も、キリストも、聖霊も、創造主である」と語っているのです。

「神は、実体(サブスタンティア)において唯一の神でありつつ、父と子と聖霊という3つの位格(ペルソナ)において存在する」

というのが三位一体の神学的な定義です。

小難しい言葉が並んでいますが、創造主である神はこの被造世界の何物にも例えられないので(もし例えることが出来るならば、神は被造世界の範疇に収まってしまうことになり、それは神ではありません)、このような表現にしかならないのです。

それでも、もしそれを可能な限りわかりやすく説明しようとするのであれば、「A君はA君である。しかし同時にB君でもあり、C君でもある」とか、「ここに100%のオレンジジュースがある。しかし同時にこれは100%のぶどうジュースであり、また100%のりんごジュースである」というような、「1+1+1=1」のような人間の合理的理解を超えた説明にならざるを得なくなります。

※(時折、一部の人々が三位一体を「気体、液体、固体と変化するH2O」で説明しようとしたり、一人の男性を例にとって、「彼は妻にとっては夫であり、子供にとっては父であり、家の外では会社員である。これが三位一体である」と解説することもありますが、それは上記の理由により聖書的な三位一体の説明とはなりません)。

つまり、三位一体とは、被造物である人間の被造世界の常識を超えた概念であり、人間の作品ではない、ということです。

創造主である神ご自身から一方的に示されなければ、人間が知り得る概念ではない、ということなのです。

その神ご自身がご自身のことを私たち人間に示された啓示の書物こそが、聖書なのです。

啓示とは「それまでわからなかったことが明らかにされる」という意味だと捉えてください)。

さて、ここで一旦、三位一体についてこれ以上深く掘り下げる前に、この聖書の神の代表的なご性質、属性を簡単にご紹介したいと思います。

以下に記すこれらのことは、三位一体の神の全ての位格に等しく当てはまります。またこれらのことを知ることによって、聖書の神とはどういうお方なのか、より具体的に理解ができるかと思います。

1:神は永遠である。

聖書の神は「始まり」を創られたお方です。

聖書の神に誕生もなければ、その終わりもありません。

因果律(原因と結果)の作者であり、神ご自身はその自らの作品に束縛も支配もされません。

相対の枠内にはおられない、絶対のお方なのです。

2:神は愛である。

私たち、創造主である神に反逆する罪人が、それでも今、この時、無事に生かされているのは全て、神が愛であるからです。

神は直ぐに滅ぼされても仕方のない罪人に、無償で生きる為に必要な酸素、太陽、雨、あらゆる良きものを与え続けておられます。

その神の愛の最大の現われが、イエス・キリストであり、キリストの福音です。

私たち人間は神の愛の対象であり、親である神は、その子供である私たち一人一人の最善を願っておられます。

その最善とは、全ての人間がイエス・キリストを救い主と受け入れ、一人も滅ぶことなくご自身と共に永遠の世界で住まうことなのです。

3:神は義である。

神はご自身の存在にも、その行為にも、ご自身のご性質に反する要素を含むことはありません。

不正、不公平、不誠実といったことは神とは無関係です。

正義に忠実である故に、神は罪を罪のままで放置することは出来ず、罪人の罪を裁くのです。

例え今の世の中、一見、悪や不正が法的に裁かれずに蔓延っているように見えたとしても、神はいずれその全てを一切漏らさず、帳尻が合うように裁かれるのです。

「復讐するは我(神)にあり」とは元々は聖書からの引用であり、それは真実の言葉です。

4:神は聖である。

聖書における「聖」とは「日常的なもの、汚れたものからの分離(set apart from)」を意味しています。

「神は義である」が、神の罪に対する積極的な裁きの姿勢であるとするならば、この「神は聖である」とは、その罪や汚れに対する消極的な拒絶の状態を示しているとも言えます。

創造主である神と、その被造物との間には絶対的に乗り越えることができない「壁」があり、神は必然的に神以外のものからは分離されているのです。

5:神は全能である。

神はご自身のご性質に反することでない限り、どのようなことでも実行、実現が可能なお方です。

またそれ故に、そのご自身の愛と義のご性質に基づき、その無限の力をあえて制限することも可能なのです。

それが人間となって、しかも赤ん坊の姿となって、この世に来られた神、イエス・キリストとその福音に現わされているのです。

6:神は全知である。

神にとって「新しい発見」はありません。

神は、過去、現在、未来の全て一切を既に知っておられます。私たちの心の中も、私たち自身が気付いていない事柄や心の中のつぶやきすらも、ことごとく知っておられます。

私たち以上に、私たちのことを知っておられるのです。

これは神を信じ、神に信頼している人にとっては慰めでありグッドニュースですが、逆に神を受け入れず、自分の創造主などいないかのように生きている人にとってはバッドニュースです。

7:神は遍在(へんざい)の神である。

遍在する、とは「いかなる場所にも、常に存在する」という意味です。

これは、神の諸要素が宇宙に分散している、という意味ではありません。

宇宙にある全ての法則の造り主である神は、この宇宙上のいかなる現象(空間、時間も含む)の干渉も受けずに、全宇宙全ての領域に、量子レベルに至るまで、隅々にまで権威と支配権を持ち、同時に存在する、という意味なのです。

福音を受け入れ、ボーンアゲインしたクリスチャンの内側には聖霊なる神が住まう、とされています。イエス・キリストを救い主として信じるならば、全ての人にそれは起こるのです。

それは聖書の神が遍在の神であるからこそ、可能となることなのです。

これらは以上のことは、啓示の書である聖書を通して、私たち人間がわかる範囲のことであり、これら全てのことが神の全てではありません。

というのは、これらの要素を足し合わせても、それで神とはならないからです。

被造物である有限の私たち人間が、創造主である無限の神の総計を推し量ることは不可能です。

そういう訳で、私たちが三位一体を聖書が啓示する以上に捉えることは出来ません。

そもそも三位一体とは「理解するもの」ではなく、「信じるもの」なのです。

そのことを踏まえて、次回からは三位一体の神のそれぞれの位格(ペルソナ)についての学びを深めて行きたいと思います。

 

#15

 
 

#16

「そのとき(イエスが十字架につけられる時)、イエスはこう言われた。

『父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。』

(ルカの福音書 23章34節)

​さて、今回は三位一体の神の第一の位格(ペルソナ)である『父なる神』について焦点を当ててみたいと思います。

少しおさらいとなりますが、三位一体とは「神が三つ子のように三体存在する」とか、「一体の神が見え方や状況によって三体のようになる」とか、そういう意味ではありません。

聖書が主張する宇宙の創造主、神はあくまでもお一人であって、しかし独立した3つの位格(神としての存在)があり、それぞれの役割を担っておられるのです。

神は私たち神に反逆する人間を愛し、永遠の滅び(地獄)から救おうとされておられるのですが、その人類の救いのご計画には、この三位一体のすべての位格が関わっています。

どういうことかと言うと、

1:父なる神が人類の救いをご計画し、

2:子なる神キリストがそれを実行し、

3:聖霊なる神がその働きを助ける。

ということなのです。

ところで、皆さんはアーネスト・ヘミングウェイという小説家をご存知でしょうか。

『老人と海』などの作品で知られ、1954年にはノーベル文学賞も受賞した作家です。

またヘミングウェイは、一方で強固な無神論者としても知られています。

と同時に、彼は父親との関係に相当難があったともされています。

ヘミングウェイだけではなく、歴史上、聖書に強烈に反対して来た無神論者のほぼ全ては、自身の父親に対して、人並みならぬ何かしらの失望や敵意、幻滅、喪失感を抱いているそうです。

確かに、親、特に父親との関係が全く健全である、という人は少ないのかも知れません。

誰しもが、何かしらの傷を親から受けています。

しかし著名な無神論者がほぼ一致して、「父親との関係が破綻している」という特徴を有しているのは、偶然ではないと思います。

恐らく、特にキリスト教国とされる国で育ち、父との関係で傷付いた人は、この聖書が「父と子の関係」を「三位一体の神の姿」として示していることに、また聖書の中で信頼すべき神を「父」として言い表していることに、根源的な反発心や不快感を覚えるのではないでしょうか。

そしてその思いがその人を無神論へと駆り立ててしまうのでしょう。

「父」という言葉に内包されている力は、それほどに強いのです。

では何故、神はご自身を「父なる神」として私たち人間に啓示されたのでしょうか?

これは聖書の神が「男だ」と言っているのではありません。

聖書の神には性別とされるものはありません。聖書の中には神のご性質を女性的(母親的)なイメージで描写している箇所もあります。

神が「父なる神」としての啓示を採用されたことの背後には、ご自身を偶像の神々と明確に区別させる目的もあったかと思われます。

聖書の神は第一義的にはイスラエル民族にご自身を現わされた神です。

古代の中近東において、イスラエル民族を取り囲んでいた民族は、ほぼ例外なく、豊穣や多産を司る女神をまつっていました。またその女神の礼拝や祭りには、大抵、性的な不道徳や、時には子供を火にくべる人身供養などの儀式も伴っていました。

言葉と実体は密接に繋がっています。

イスラエルに現わされた本当の神は、それら人間の欲望を叶えるために人の手によって作られた偶像とは別次元の存在であり、そのような邪悪な偶像礼拝と真の礼拝とが混合させないためにも、またイスラエルの民を堕落した慣習から守るためにも、恐らく神は「父なる神」という啓示を用いられたのでしょう。

またそれ以上に、神が望まれる人間社会のあるべき姿を教えるため、というより普遍的な理由がそこにあるかと思います。

人間社会の最小単位は家族です。

そして家族を家族として成り立たせる根幹の繋がりは、夫婦関係です。

最初の人間が女性のイヴではなく、男性のアダムであったように、先ず夫が存在してこそ妻が存在し、男(夫、父)という軸があるからこそ、夫婦関係、またそれに続く親子関係が成り立ち得るのです。

(これは男尊女卑を礼賛しているものではありません。聖書が示す創造の秩序を語らせて頂いているだけであり、その聖書的価値観から見れば、男女ともに役割の違いはあれど、存在価値は平等です。むしろ、聖書ほど女性の価値を正当に評価している書物はありません)。

それ故に、聖書的世界観に立てば、男の責任は常に重大であり、家庭における「父」という権威が権威として正常に保たれることに、人間社会の本来の調和があることが見えてきます。

父権が崩壊したところに、親子関係、夫婦関係の崩壊があり、社会の崩壊があることを、この宇宙を造られた神は十分にご存知なのです。

また一方で、聖書の原則から言えば、子供にも、親の権威、父権を無条件で認める責任があります。

そのような子供が、やがて親となり、次世代の家庭、社会を築いて行くからです。

かの有名なモーセの十戒に「あなたの父母を敬え」という命令があり、それが新約聖書においても重要な戒めとして繰り返し出て来るのですが、それは必然性をもって与えられた「神の願い」と言えるのです。
 

父母を大切にする人には大きな祝福が待っています。

逆に父母を蔑ろにするならば、その人は決して幸せにはなれません。

それこそが聖書が啓示する絶対的な人間社会の秩序であり、全ての人に適用される真実なのです。

神がご自身を「父なる神」として私たちに啓示されたという事実は深遠です。

そこには、父と子の健全な繋がりを得ることこそが人間の生きる道であるということ、究極的には全人類の父である聖書の神に立ち返ることこそが、永遠の命を得る道であるという神からの訴えがあるかのようです。

ではどのように人は父なる神のもとに立ち返ったら良いのでしょうか?

どのようにすれば父なる神と本来の親子関係を築けるのでしょうか?

それは努力や修行ではなく、神と取引きをするのではなく、ただ子なる神、イエス・キリストの福音を信じる、その信仰によって、またその信仰を通して働く神の恵みによってなされます。

イエス・キリストの福音とは、

1:神であるキリストが人となり、あなたの罪の身代わりとなって、あなたが受けるべき罪の裁きを十字架の上で受けて下さった、ということ

2:そのキリストは肉体的に完全に死に、墓に葬られた、ということ

3:しかし神は死では終わらず、約束通り、3日の後に墓から復活された、ということ

そのことを信じることによって、例え命の灯が消える1秒前であったとしても、あなたは「神の子ども」とされます。

神の子どもとされたのであるならば、あなたは親である神と、肉体の死後も永遠に平安に包まれて生きることができます。

それがいわゆる、永遠の命、「天国」です。

その逆、つまり永遠に親から切り離される状態が、永遠の滅び、「地獄」なのです。

ヘミングウェイの父親は拳銃で自殺をしてしまったそうです。

その父に幻滅していたヘミングウェイ本人も、最期は精神を病みライフル銃で自死しました。

亡くなる瞬間のことはわかりませんが、少なくともヘミングウェイはその生涯を無神論者で通したようです。

親子の関係の破壊が、聖書の神に対する不信につながり、それがその人を福音から遠ざけ、永遠の滅びをその身に招いているのだとしたら、これ以上の悲劇はありません。

多くの無神論者は、残念ながら、救いの手を差し伸ばしておられる父なる神の影におびえながら生きているようにしか見えないのです。

地上の親は、確かに完全ではありません。例外もあることは十分に承知していますが、しかし一般論として、親は子供を愛しているはずです。

赤の他人はあなたを見捨てても、親はあなたを見捨てないはずです。ひどい親でも、何か一つは親らしい無償の愛の行為があったはずですし、そのような思い出があなたにもあるはずです。

親はいつの時でも、例えあなたがどのような状態であったとしても、絶対的にあなたの味方です。

地上の親ですらそうであるならば、天の完全な親である神はなおさら、あなたを深い、筆舌しがたいほどの愛で包んでくださっておられます。

どうかそのあなたの魂の親である聖書の神に、イエス・キリストの福音を信じる、その信仰を通して立ち返ってください。

心よりお勧めいたします。

 

#17

「神は人をご自身のかたちとして創造された。

(創世記 1章27節)

​今回は三位一体の神の第二の位格(ペルソナ)である『子なる神(キリスト)』について語ってみたいと思います。

聖書はキリストについて非常に多くのスペースを使って語っており、その全てを1回でカバーすることは不可能なので、今回は三位一体の文脈の中で見えてくる「創造主としてのキリスト」に重点を置いてお話したいと思います。その他のキリストのご性質、その働きについてのことは、回を重ねるごとに順を追って明らかに行きますので、どうかこれからも末永くお付き合いください。

ところで、皆さんは私たちの「人間存在」について、考えてみたことはありますか?

人間とは、よくよく鑑みてみれば不思議なものです。

経済活動をし、学問をし、歌を作り、物語を編み出し、他者を愛し、また憎しむ。

数学を研鑽して行った果てに、光の速度を観測し、月にまで行き、また人類全体を何十回をも滅ぼすことが出来る核兵器すらも開発したのです。

​「猿から進化した割には随分と大それたことをしてるもんだ」とある人々は言うかも知れません。

確かに、私たちが「猿のようなものから進化しただけ」であったのなら、それら目に見える人類の業績はまさに奇跡の産物と言えます。

それらは信じがたいほどに優れており、偉大であり、また常軌を逸して邪悪なのです。

知性が進化しただけでは説明ができない営みを、実際に人類は行って来ているのではないでしょうか。

​人間と他の動物を決定的に分けるものとは一体何でしょう?

言葉を話すでしょうか?嘘がつけること?それとも二足歩行?道具が扱えることでしょうか?

それらも確かに「人間らしい」特徴ではありますが、それらが揃ったところで、人間を人間たらしめる訳ではないと思います。人間ほど洗練されてはいませんが、小さなスケールでそれらと似たようなことを行う動物もいますし、またAI技術が進めば、それらの特徴を備えた人間そっくりのロボットもやがて登場するでしょう。

人間を人間として機能させている、人間性の根源となっているものとは果たして何なのでしょうか?

それは上記の聖書箇所に答えがあります。

「神は人をご自身のかたちとして創造された。」

つまり人間は「神のかたち」として造られた、ということであり、それが他の動物と決定的に違うところだ、と聖書は語っているのです。

それは言い換えれば、「自らの造り主を認識すること」であり、もっと言えば「霊(神を認識する領域)が与えられていること」だと思います。

これはクリスチャンや、いわゆる一神教の宗教的な枠組みにいる人たちだけに当てはまることではありません

仏教徒であろうが、無神論者であろうが、例えその知性は創造主なる神を否定しても、例えその霊が死んだような状態になっていたとしても、神を認識できる素養が備わっています。

例え今は造り主から離れていたとしても、そのまことの神の元へ帰還できる可能性を全ての人間は持っています。

何故なら、神は愛であり、全ての人間を罪による永遠の滅びから救いたい、ご自身のもとに取り戻したいとされておられるからです。

よって、もし創造主を認識する余地のない人間がいるのだとしたら、それは定義的に人間と呼べるものではありません。神が人間を「ご自身のかたち」として造られた以上、その人間が神を完全に忘れることは神がお許しにならないのです。

実際に、これまで多くの無神論者、また偶像礼拝の宗教の真っ只中にいた人たちが、イエス・キリストの福音を聞き、それを受け入れ、クリスチャンへと変えられて行きました。

人生の中に神を認識し、神に対して祈る、神と共に生きることを喜びとする。

これらのことは人間のみが持っている比類なきユニークな特徴なのです。

では、その「人が神のかたちに造られた」ということについて、もう少し掘り下げてみましょう。

上記の聖書箇所は旧約聖書の創世記という書物からの引用なのですが、旧約聖書は一部を除いてヘブライ語で書かれました。

その原文であるヘブライ語で、ここでの「かたち」と訳されている言葉は「ツェレム(צלם)」と言い、その本来の意味は、「型(かた)」もしくは「影」です。

「かたち」と訳してしまうと、何か漠然としていて、抽象的な、どうとでも解釈できるニュアンスがどこかにありますが、しかしその原語の意味を考えれば、これは字義通りに「本体」に対しての、具体的な「型(かた)」もしくは「影」なのです。

その「本体」とは子なる神、キリストです。

「型(かた)」と「本体」の関係、といっても、もしかしたら多くの日本人にとって明確なイメージが掴みづらいものなのかも知れません。

ですので、タイプライターを想像して頂ければと思います。

タイプライターは仕組みとして、文字キーを叩くとそれに連動するアームが動き、そしてアーム先端にある活字部分がインクリボン(インクが染みこんだ帯状の織物)に当たり、文字が紙に印字されます。

その紙に印字された文字が「タイプ(Type)」であり、「型(かた)」です。

「たい焼きの鋳物の型から無数のたい焼きが出来上がる」という日本語的な使い方とは実は全く逆で、そのタイプされた文字を生み出したアーム先端の活字部分こそが、「型(かた・タイプ)」に対する「本体」なのです。

「本体」が先ず存在してこそ「型(かた・タイプ)」が存在し、生み出された「型(かた・タイプ)」はその大元である「本体」を指し示す、これが「型(かた・タイプ)」と「本体」の関係なのです。

つまり、「人が神のかたちに造られた」とは、人は子なる神キリストを「本体」とする、その「型(かた・タイプ)」として造られた、という意味で、これこそが聖書が主張する人間観です。

キリストという人間存在の完成形(ブループリント)が先ずあって、私たちがあるのです。

人間は神を模して造られたのです。

これは被造物として破格の取り扱いです。

何故なら、人間はその創造の始めから、三位一体の調和の中に(あくまで被造物として、ですが)、組み込まれるように設計デザインされているからです。

この待遇は、能力的には人間より上位の御使い(天使)に対するそれよりも優れています。

堕落した御使いであるサタンが、人間に罪を犯させようとイヴを誘惑したのも、もしかしたらそのことに由来する嫉妬や恐れがあったのかも知れません。

​そのサタンの目論見通り、最初の人間であるアダムが犯した罪が、人間の霊を殺し、神と人間との調和を破壊しました。

罪とは神の性質に反する全てのことです。罪は神が良しとされるものを全て破壊します。神は聖なるお方ですので、そのようなものを一切受け付けられないのです。

その結果、アダムとイヴは神との調和ある交流を楽しんでいたエデンの園から追放されなくてはならなくなりました。

それ以降、人間は創造主である神を見失い、正常な神概念、人間観、自己認識を持ち得なったのです。

罪が神と人間の間に入っている限り、その不幸な状態は続きます。

それ故に、人間存在の大元である子なる神キリストが、人間の完成形として、一切罪のない人間として誕生し、この世界に来てくださったのです。

全人類の罪を一身に負い、その全てを清算するためです。

それがイエス・キリストの福音です。

福音を信じ受け入れた者は、それまで死んでいた霊の部分が復活し、三位一体の神との調和の中に再び戻ることが出来ます。

罪人がキリストを通して神の子どもとされるというのは、そういう意味なのです。

ちなみにクリスチャンはよく、キリストが私たちの罪を贖ってくださった、そしてその贖いを通じて私たちは神と和解することが出来た、というような言い方をします。

全くその通りであり、間違ってはいません。

しかし「贖い」も「和解」も、元々は「カタラゲイ(καταλλαγή)」というギリシャ語の一語から訳出されています。

そこには「ただ仲直りする」ということ以上に、「本来持っていた調和を取り戻す」という意味があります。

つまり、キリストの福音の本質、成してくださった働きの本質とは、「神と人との破壊された調和を回復させる」、「失われたエデンの園の状態を取り戻す」というところにあるのです。

この事実は私たちの世界観、歴史観、人生観、生き方を変えます。

私たち人間は、猿のようなものの子孫でも、偶発的に誕生した細胞の塊でもありません。

生産性を失ったら捨てられてよい存在ではありません。

私たち一人一人には神の姿が刻まれているのです。

この罪で支配された世界は、私たち人間が本来、安住すべき場所ではありません。

この世の真実は、愛であり、希望であり、命なのです。

どうか今、人間存在の完成者であるイエス・キリストの命がけの福音を信じ、無代価で提供されている神との調和、天国をその両手で受け取って下さい。

心よりお勧めいたします。

 

#18

「そしてわたし(イエス・キリスト)が父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。」

(ヨハネの福音書 14章16節)

​父なる神、子なる神、と続いて、今回は三位一体の神の第三の位格(ペルソナ)である『聖霊(せいれい)なる神』について焦点を当ててみたいと思います。

実のところ、聖霊に関する神学(『聖霊論』と一般的には呼ばれています)は、クリスチャンの中でも混乱し、意見の相違が顕著に現わされています。

​あるグループは聖霊の働きを過剰なまでに強調し、また一方で、あるグループは聖霊の存在を無いものかのように扱います。一見、程良い中間的な立場を取るグループ、教会であっても、実際は聖霊なる神がどのような役割をなされるのかについて、正しい認識が及んでいないことが多かったりします。

聖霊論はそれぐらいに取り扱いが難しく、デリケートなテーマではあります。

が、しかしだからこそ、当サイトとしては慎重に、これまでの記事同様に聖書の言葉と照らし合わせながら、混乱を起こさないように解き明かして行きたいですし、そのような使命と責任があると自覚しております。

というのは、聖霊論を聖書的に正しく理解した先には、聖書が本来私たちに提供している人智を超えた祝福と問題への解決があると確信しているからです。

これから何回かに回数を分けつつも、順を追ってご紹介して行ければ、と思っております。

今回は先ず、「そもそも『聖霊』とは何ぞや」という基本中の基本からご説明してみたいと思います。

「聖霊」と聞いて、皆さんはどのようなイメージを持たれますか?

(英語では the Holy Spirit。聖書の中で場合によっては「神の霊」、「御霊」(みたま)とも表現されます)。

その字面から、よく漫画などで描写されているような、何かプラズマ状の霊魂のようなものを想像してしまうのではないでしょうか?

実際に、昔の英語の聖書では「the Holy Ghost」と表記されており、そのためにステレオタイプのアニメチックな人魂やお化けのイメージを持ってしまい、中々そこから抜け出せなくなった、という英語圏のクリスチャンの方は意外と多いと聞きます。

そのように、単純に「聖霊」という言葉の響きからは、「宙に漂う無機質な霊体」としての聖霊イメージを多くの人は持ってしまうのかも知れません。

しかし、聖霊は父なる神、子なる神と同じ創造主なる神であり、他の位格がそうであるように、人格を持たれる存在です。

以下に挙げる聖書の言葉は、そのことを証明する代表的なものです。

「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。」

​(エペソ人への手紙 4章30節

「それから彼ら(パウロたち)は、アジアでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フリュギア・ガラテヤの地方を通って行った。」

​(使徒の働き 16章6節

聖霊が単なる無機質な霊体的なものあったりするのなら、「悲しむ」ということはあり得ませんし、また意志をもって人間の行動に干渉してくることもありません。

「聖霊は人格ある存在ではない。神から発するある種のエネルギーを擬人化したものだ」というような見解は実はキリスト教界の内外で頻繁に発せられています。が、けれども、聖書はそのようには聖霊を紹介しておらず、むしろ「無機物が擬人化されたもの」では説明が出来ないほどに、聖霊が知性と感情、意志をもってユニークに行動される存在であることを一貫して示しています。

明らかに、聖霊は「知情意」のある、人格を持たれるお方なのです。

しかし例えそのような理解がなされたとしても、もしかしたら聖霊に神としての実体を中々見ることが出来ない、言い換えれば、聖霊が三位一体の神であるということに中々ぴんと来ない、という部分もあるかも知れません。

確かに人格があるからといって、それで自動的に「神である」とは言えません。

​そこで私たちが考えるべきは冒頭に掲げた聖書箇所です。

「そしてわたし(イエス・キリスト)が父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。」

(ヨハネの福音書 14章16節)

この箇所はかの有名な最後の晩餐(過越しの食事)が終わった後、数時間後には逮捕され十字架につけられるイエス・キリストが弟子たちに語った、ある意味、「遺言」のような言葉です。

キリストはご自身が十字架上で死なれ、復活し、そして父なる神の元に戻られた後、地上に残された弟子たちには様々な迫害が襲ってくることを見越して、その目の前の弟子たちに励ましの預言を語られたのです。

ここで「助け主」と日本語で訳されている、新約聖書の原語であるギリシャ語は「パラクレトス(παράκλητον)」という言葉で、第一義的には、「呼び出されてその人のそばに立つ弁護者」という意味があります。法廷で訴えられている人を助けるイメージがそこに込められているようです。

ちなみに英語の聖書では、このパラクレトスを「Comforter(慰める者)」と訳しています。この場合は「いつもその人のそばにいる」というニュアンスが強調された結果かと思われます。

そしてそのパラクレトスを形容する「もう一人の」と訳されているギリシャ語が重要です。

それは「アロス(ἄλλον )」という言葉で、「同じ本質を持つ別の何か」(英語に訳せば「another」)という意味です。

「既に人々に与えられていた助け主」とはキリストです。

つまり、それに対するこの「もう一人の助け主」とは聖霊であり、聖霊は子なる神と同じ神としての性質を持たれている三位一体の神である、ということをこの聖書箇所は示しているのです。

そしてその聖霊が、キリストのこの預言通りに、復活したキリストが天に戻られた後、ペンテコステ(五旬節)というユダヤ人の祭りの日に、弟子たちの上に下りました。

そしてその日から、遍在される神である聖霊がその弟子たちの内側に住み、この地上に「教会」と呼ばれるキリストを信じる信仰者の群れ、組織が誕生したのです。

今は専門的には「教会時代」(もしくは「恵みの時代」)と呼ばれていますが、その時代は今から約2000年前の、聖霊が地上に降臨した「ペンテコステの日」から始まっているのです。

(教会はアブラハム、もしくはアダムの時代から始まった、と主張する神学体系もありますが、それは聖書的に見て正しいとは言えません。そのことについても、またいつか取り上げます)。

その「ペンテコステの日」以来、当時の弟子たちだけではなく、キリストの福音を信じ救いに与る人全てに聖霊がその人の内側に宿るようになりました(それを「聖霊の内住」と呼んだりします)。

クリスチャンへと変えられた人は、そうでなかった時と比べて圧倒的に罪に対して敏感になります。

クリスチャンではなかった時は、1日10回ウソをついても平気だったのに、それが1週間に1度ウソをついただけで心に責めを感じるようになります。

それはその人が「クリスチャンらしい立派な良い人になろう」と努力しているからではなく、内住する聖霊がその人に働きかけておられるからです。

聖霊なる神を内側に宿す信仰者は、神が喜ばれることを喜び、また神が悲しまれることを悲しむことが出来るようになります。

もちろん、そのためにはその聖霊のささやくか細い声にその都度、耳を傾ける必要があります。

神は人の自由意思を尊重されるお方なので、聖霊の声に傾聴するつもりもない人を無理矢理従わさせることはなされません。

しかし人がその聖霊の声に応答するのなら、一時的な世間との摩擦、罪の誘惑に対する戦いはあったとしても、最終的に神はそこに素晴らしい祝福を与えられます。

それはより深く神の力を知る、聖書が約束している事柄を実生活の中で体験出来る、という祝福です。

日々、聖霊の声に応答している信仰者は、次第に自分のものとは思えないような知恵や勇気、希望が内側から湧き、人生の困難や問題に対して勝利を見ることが出来ます。

社会に対しても信仰者として大胆にアプローチすることも出来るようになります。

聖霊なる神はキリストが約束された「助け主」です。

罪の力に打ち負かされそうになってしまう信仰者を常に助け、どのような時でも、いつまでもその者と共に歩んで下さいます。

人間の力では出来ないことが、聖霊の働きによって出来るようになる、その祝福が聖霊を与えられた信仰者には待っているのです。

「旧約聖書の時代」は「父なる神が働かれる時代」、「福音書の時代」は「子なる神が働かれる時代」と言われたりします。その流れで言えば、聖霊の降臨から始まった今のこの「教会時代」は「聖霊が働く時代」と言うことが出来ます。

信仰者には神の霊が宿る、その恵み、祝福は教会時代以前には想像すらも出来ないほどに大きなものです。

どうかあなたも今、キリストの福音を心で受け取り、神である聖霊と共に人生を歩む喜びと祝福を味わってみませんか?

​心よりお勧め致します。

 

#19

「わたし(イエス・キリスト)と父とは一つです。」

(ヨハネの福音書 10章30節)

​一般的に、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教は「一神教の宗教」とされており、「同じ神」を信じている(礼拝している)と言われています。

確かにその3つは「アブラハムの宗教」(自身の信仰の源流がアブラハムにあることを認める)、または「啓示宗教」(神が人に与え示された言葉を信仰の土台としている)と呼ばれる枠組みの中にあり、それぞれには共通の神概念があります。

それは、

1:神は唯一である。

2:神は天地万物の創造主である。

3:神は永遠であり、遍在される。

4:神は人間に語り掛け、人間の歴史に介入される。

5:神はその人の行いに応じて、祝福と裁きをもって報いられる主権を持っておられる。

などです。

つまり平たく言えば、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教ともに「信じている神様のキャラクターは似ている」のです。

しかし、「似ていて」も「同じ」ではありません。

その決定的な違いは何か。

今回はそのことについてお話したいと思います。

先ずはユダヤ教とキリスト教についてですが、この両者は共に旧約聖書を信仰の土台としています。

しかしユダヤ教は「ナザレのイエス」(ナザレという寒村から出て来たイエスという預言者)をメシア(キリスト)と認めていないので、よって新約聖書もその存在そのものを認めていません。

ユダヤ教にとっては聖書に旧約も新約もなく、クリスチャンが言うところの旧約聖書が彼らの聖書の全てなのです(ユダヤ教では他にミシュナ、ゲマラ、タルムードと呼ばれる経典が聖典として扱われています)。

旧約聖書の預言で提示されたメシアとしての条件の全てを満たす人物は、歴史上、後にも先にもナザレのイエスのみです。

その「メシアに関する預言(メシア預言)」についても追々ご紹介したいと思いますが、しかし何故、ユダヤ教はイエスの時代から現在に至るまで、そのナザレのイエスをメシアと認めることが出来ないのでしょうか?

イエスはその公生涯の中で、イスラエルの民に向かって何度もご自身がメシアであることを奇跡をもって証明し、また言葉をもって証言されていました。

冒頭で示した聖書箇所は、その内の一つです。

 

「わたし(イエス・キリスト)と父とは一つです。」

パリサイ派を始めとする当時のユダヤ教指導者たちは、イエスが彼らが持っていた「メシア像」と合致しないので、イエスに対して大いに苛立っていました。

彼らの持っていた「メシア像」とは、「メシアならばユダヤ教の口伝律法を必ず守る」というものです。

しかし、口伝律法は「先祖たちの言い伝え」とも呼ばれ、聖書にはない、人間が作った教えであり、イエスはむしろそれに反するような行動を取っていました。そのようなイエスの「メシアらしからぬ」振舞いがユダヤ教指導者たちの逆鱗に触れ、やがてそれがイエスの逮捕、十字架刑へと繋がったのです。

イエスはそのように悪意をもって問い詰めてくるユダヤ教指導者たちに対して、上記のような発言をもって答えられました。

「わたしと父とは一つ」とは、「自分は父親と同一人物」という意味ではありません。

これはユダヤ教的には「神性宣言」です。

つまりイエスは、「自分は父なる神(旧約聖書に啓示された神)と等しく神である」と宣言されたのです。

これはユダヤ教指導者たちにとっては冒涜以外の何物でもありません。

聖書の字義通りの解釈、というよりも、口伝律法の伝統によって信仰体系を形成した「パリサイ派的ユダヤ教」にとって、神はお一人であって、三位一体の神という神概念は持ち得ません。まして「子なる神」が人として受肉し、口伝律法を破りまくり、それがイスラエルのメシアであるとは想像すらも出来ないことです。

実際にこの発言の後、ユダヤ教指導者たちは冒涜罪としてイエスを石打ちの刑に処そうとしました。

自分を神そのものとしているイエスのこのような神性宣言は、ユダヤ教としてはとても受け入れられないものなのです。

今現在にまで続くユダヤ教はこのイエス時代の「パリサイ派的ユダヤ教」の延長線上にあります。

よって、ナザレのイエスが神であることを、またイスラエルのメシアであることを認めない信仰体系であるユダヤ教は、「キリスト教と同じ神を信じている」と言うことは出来ません。

悲しいことに、人間の作った宗教的戒律、口伝律法が、イスラエルの希望として地上に来られた子なる神イエスを「神でもメシアでもないユダヤ教の敵」としてしまったのです。

次にイスラム教について簡単に触れたいと思います。

イスラム教はこの3つの中では一番新しく、7世紀前半にマホメットを開祖としてアラビア半島で誕生しました。

マホメットは当時のアラビア半島に蔓延していた偶像礼拝を嫌い、ユダヤ教、キリスト教に友好的な態度を取っていました。一神教を好んでいたのです。

しかし自分を偉大な預言者の地位に置き、新たな宗教を作ろうとする彼は、次第にユダヤ教徒、キリスト教徒からも疎まれて行き、遂には敵対するようになりました。

イスラム教の経典はコーランです。

コーランは、マホメットが神(アッラー)から約20年間にわたって受けた啓示をまとめたものがその原形だと言われています。そしてマホメットの死後、弟子たちが師の教え、言行録を編纂し、今の形に落ち着いたとされています。

基本的にコーランは旧約聖書と新約聖書の福音書の一部をベースとしていますが、物語性がなく、歴史的背景の理解や予備知識がないと非常に読解が困難です。またユダヤ教・キリスト教聖書の記述と比較すると、矛盾と思われるような点や、改変された箇所が多くあります。

何よりも、コーランにおいて、ナザレのイエスはモーセやアブラハムと同じく、「偉大な預言者の一人」として扱われています。コーランにおけるイエスはあくまで人であり、神ではありません。イスラム教はユダヤ教同様に、三位一体の神概念は持たないのです。

となれば、やはりイスラム教も「キリスト教と同じ神を信じている」とは言えません。

聖書は新旧約通して、聖書の神が三位一体の神であることを証言しています。

にもかかわらず、「父、子、聖霊の三位一体の神」をその通りに信じていないのであれば、例え旧約聖書に啓示された「創造主なる神」を受け入れている共通項があったとしても、結局のところ、「同じ神を信じている」とは言えないのです。

(※確かに旧約聖書では三位一体の啓示は不鮮明ではありましたが、イエスの地上生涯における活動、発言を素直に受け止めるのであれば、当時の旧約聖書の知識しかなかったユダヤ人でも十分に「ナザレのイエスがメシアであり神である」と信じることが出来たのです)。

また、それと連動して、神概念の異なりが、そのままそれぞれの救いの教理の異なりへとなって来ています。

それはどういうことかと言えば、人として受肉された子なる神、ナザレのイエスが唯一、人類の救いを成し遂げて下さったからです。100%神であり100%人である罪のないイエスのみが全人類の罪を十字架上でその死をもって清算したのであり、またイエスのみが死から復活したのであり、そのイエス・キリストの福音を信じる信仰のみが、信じる人を罪の裁き、永遠の滅びから救うからです。

つまり、イエス・キリストを神と認めていないのであれば、必然的に、聖書が提示している救いの方法ではない「別の救いの方法」を信じている、ということになるのです。

ユダヤ教は、基本的に「ユダヤ人(アブラハムの子孫)であれば自動的に救われている」と教えています。

(例外は、「キリスト教に改宗したユダヤ人」です。キリスト教に改宗したユダヤ人は、死んだ後、その魂が天国の門に近付いても、門番をしているアブラハムに追い払われる、とされています)。

彼らが律法を熱心に守ろうとするのは、「救われるため」ではなく、「天国でより高い地位に就く」ためです。

イスラム教は完全に「業(わざ:行い)による救い」をその救済論の基本としています。

五行の実践(信仰告白、1日に5回の礼拝、貧困者への施し、ラマダン月の断食、メッカへの巡礼)は、イスラム教徒にとって、救いを確かなものとするためには欠かすことができないものです。

またイスラム教は基本的に7世紀当時の中東で起こっていた戦争を背景に確立された教えなので、ジハード(イスラム教伝播のための戦い。必ずしも武力行使を指すわけではない)によって殉教することも「救いの方法」として採用されています。

つまり「ジハードによる殉教者」はパラダイス(天国)に行けると教えているのです。

聖書が新旧約一貫して、神が「三位一体の神」であることを主張しているのと同じように、救いに関しても聖書は新旧約一貫して「信仰と恵みによる救い」を説いています。

福音の内容(救いに至る信仰の内容)は時代によって変わったとしても(例えばアブラハムが信じた福音の内容と、教会時代に生きる私たちが信じている福音の内容は異なる)、「神が聖書を通して約束された事柄を信じる信仰と、その信仰を通して働く神の恵みによって、人は無条件で救われる」という「神の人類救済方法」には変化はありません。

その聖書的救済論をその通りに保持しているのが、世間的には「キリスト教」と呼ばれる「ナザレのイエスを子なる神キリストと信じる」信仰です。

キリスト以外には、誰によっても救いはありません。天の下で、このキリストの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。

天国はどこか遠いところにある訳ではありません。

完全な愛である聖書の神は、全ての人をご自身のもとへと招いておられます。

その人が、どのような国籍か、ユダヤ人か、日本人か、アメリカ人か、また立派な行いが実践できるかどうかは一切関係がないのです。

どうかあなたも今、全人類に無代価で差し出されているイエス・キリストの福音を受け取り、無条件の魂の救いを手に入れて下さい。

​心よりお勧め致します。

 

#20

「見よ、その時代が来る―主のことば―。そのとき、わたし(神)はイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。

その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。

(エレミヤ書 31章31~32節途中まで)

「聖書には、旧約聖書と新約聖書という2つの区分がある」ということは、もしかしたら皆さんもどこかで耳にしたことがあるかと思います。

しかし、旧約聖書って何?

また、新約聖書って何?

と問われれば、明確に正しく答えられる、という人は、一般的に見て、少ないのかも知れません。

まして、その両者の繋がり、関係性について、筋道の通た回答を用意できている人は殊更に稀でしょう。

(実のところ、「キリスト教」とされる括りの中にいる人たちですら、その理解には不確かなところが多かったりします)。

ある人は「旧約聖書は古い版の聖書で、新約聖書は新しい版の聖書だ」と考えているのかも知れません。またある人は「ユダヤ教の聖書が旧約聖書で、キリスト教の聖書が新約聖書だ。だからキリスト教は旧約聖書を認めていない」と信じているのかも知れません。

またある人は、例えクリスチャンでも、「旧約聖書は『終わった時代の古い聖書』だから、クリスチャンは『新しい聖書』である新約聖書だけを読めば良い」と考えてしまっているのかも知れません。

恐らくそれらの思いの背後には、「旧約・新約」という言葉に対する不理解と、またキリスト教界が伝統的に作ってしまった「自身の信仰のユダヤ的(旧約聖書的)ルーツをなかったものにする」障壁の作用があるのではないでしょうか。

ということで、今回は「旧約聖書と新約聖書の繋がり①」として、先ずは「旧約・新約」という言葉の意味について解説してみたいと思います。

またそのことをきっかけとして、聖書の神のその深いご性質について前回までよりも更に深く掘り下げ、神の啓示の書である聖書を知る喜びを皆さんと共有することが出来たら一層幸いです。

「旧約・新約」の「約」とは、その字の通り、「翻訳」の「訳」ではありません。

「約束」「契約」の「約」​であり、つまり「旧約・新約」とは、「旧(ふる)い契約」「新しい契約」という意味です。

結論から言えば、「旧い契約についておもに言及したものが旧約聖書」で、またそれに呼応する形で「新しい契約について言及したものが新約聖書」である、と言うことが出来ます。

そこで問題となるのは、「ではその契約とは一体何?」ということだと思います。

ここで話を進める前に、一旦、冒頭に掲げた聖書箇所に目を移しましょう。

「見よ、その時代が来る―主のことば―。そのとき、わたし(神)はイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。

その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。

(エレミヤ書 31章31~32節途中まで)

この聖書の言葉は、旧約聖書のエレミヤ書という預言書に記されてあるものです。

エレミヤ書は紀元前627~585年にかけて、今のイスラエル共和国がある南王国ユダで預言者(神の言葉を人々に伝える者)として活動していたエレミヤという人物によって書かれました。

イエス・キリストが地上に誕生される600年以上も前の話です。

当時のユダは国家として、礼拝すべき真の神を知っていながらも、そうではない偶像を礼拝し、預言者の警告を聞かない堕落した状態に陥っていました。

そのような中で、エレミヤは酷い迫害に遭いながらも、ユダの民、また指導者に向かって、悔い改めに導く神の言葉を伝え続けたのです。

と同時にエレミヤは神から「どのようなことがあってもわたし(神)はイスラエルの家とユダの家(イスラエル民族)を見捨てない。必ずイスラエル民族はわたしに立ち返る」という励ましの言葉も受けていました。

そのことについて記したものが、この引用箇所です。

この箇所にも「新しい契約」、またそれに対応するように「彼らと結んだ契約」という単語が出て来ていますが、先ずはそのことからも汲み取れることは、聖書の神は人間と契約を結ばれる神である」ということです。

これは非常にユニークかつ、臨場感や生命の躍動感を見ることが出来る神概念です。

実際に、それがエレミヤを始め、多くの信仰者たちの持っていた「未来への希望」の裏付けとなっていました。

聖書信仰における希望の根拠は、誠実なる神が「契約の神」であることに掛かっています。

このことは聖書を理解する上で非常に重要な要素となるので、是非とも覚えておいて下さい。
 

どのような社会においても、またどのようなスケールにおいても、契約や取り決めを交わす時は、必ずその組織の「代表者」が立てられます。

代表者同士の合意が、それぞれの組織に属する者全体に影響を与えるのです。

そのことは聖書が指し示す契約にも適用されます(そもそも契約という概念の創造者は聖書の神です)。

新旧約の聖書には合計で8つの契約が登場します。

その8つのそれぞれにも、人間側に「代表者」が立てられたのですが、その内の始めの3つの契約を除いて、残りの5つの契約はアブラハム、またアブラハムの子孫であるイスラエル民族が、全人類の「代表者」として神から選ばれ、神と契約を結びました。

(いずれまた、その聖書的8つの契約についても取り上げ、詳しく解説したいと思います)。

このエレミヤ書で言及されている「わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない」の「契約」とは、モーセの十戒などで知られる「モーセ契約」(別名:シナイ契約)です。

それが「旧い契約」、つまり、旧約聖書の「旧約」です。

その契約により、イスラエルの民は「モーセの律法」の支配下に置かれ、またイスラエル民族ではない他の民族(異邦人)は「モーセの律法の支配下にはない民」としてイスラエル民族と区別されました。

モーセ契約が有効に機能している間のことを「旧約時代」とも言われますが、その間はイスラエル民族はモーセの律法に従って生きることが課せられていました。

それは与えられたカナンの地で物理的、霊的な繁栄を享受するという神の祝福を味わうためです。

モーセの律法は613あり、偶像礼拝の禁止などが命じられていたのですが、しかしエレミヤの時代のイスラエルの民はことごとくそれを破り、神を侮る態度を続けて来ていました。

そもそも罪ある人間が、罪の傾向を宿したままで、神の神聖さの基準を示したモーセの律法を自分の努力で完全に守り切ることは不可能です

神がモーセの律法を与えることを通してイスラエルの民に期待されたことは、実のところ、「モーセの律法を全て自分の力で守り切る」ということではありませんでした

というのは、何よりも、モーセ契約では罪の贖いが動物の犠牲(いけにえ)による一時的なもので、「イスラエルの罪を永遠に取り去る」というものではなかったからです。

凄まじく平たく言えば、「罪の完全な解決がないのに、モーセの律法を完全に守る → 初めから無理ゲー」であったのです。

「モーセの律法を守ろうとすることで、神の基準の高さと自分の罪の深さ、無力さを知り、謙虚になって神の力に依り頼む」ということを、神はモーセの律法を通して契約の民イスラエルに期待されていたのです

イスラエルの民はそのことに失敗したのですが、どちらにせよ、例えイスラエルの民が信仰をもってモーセの律法を遵守しようとしたとしても、モーセの律法が機能している限り、イスラエルは罪に閉じ込められたままになっていました。

神は十分にそのことを承知しておられたのです。

そこで神がその契約の民、イスラエル民族のために用意されたのが「新しい契約」です。

「見よ、その時代が来る」(新改訳聖書2017年版)とあります。

ここでの「その時代」とは原文であるヘブライ語では「ヨム(יוֹם)」であり、第一義的には「日」と訳されるべきところですが(新改訳聖書第3版では「その日」となっています)、千年王国において、イスラエル民族に霊的な回復が訪れる」という文脈的なニュアンスで考えるならば、「その時代」という訳も有効なのではないかと思います。

とりあえず「その日が来る」という意味で考えるならば、それは「イスラエルのメシアである子なる神イエス・キリストが、ユダヤ人である弟子たちと新しい契約を結ばれた時」と理解することが出来ます。

「食事の後、杯も同じようにして言われた。『この杯は、あなたがたのために流される、わたし(イエス・キリスト)の血による、新しい契約です。』

(ルカの福音書 22章20節)

このことがキリストから宣言されたのは、いわゆる「最後の晩餐」として有名な「過越しの食事」においてです。

キリストはこの宣言から数時間後には逮捕され、翌朝には十字架にかけられるのですが、この「日」から徐々に、世界は「旧約時代」から「新約時代」へと移り変わっていきます。

聖霊が弟子たちの上に下った「ペンテコステの日」が「教会時代」の幕開けなので、その時から完全に「新約時代」が始まった、と見て良いでしょう。

つまり、このルカの福音書を含め、4つ福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)は新約聖書に収録されていますが、その書かれている舞台は時代区分で言えば「旧約時代」と言えるのです。

「新しい契約」はモーセ契約が出来なかったことを実現させました。

それこそが、「罪に対する完全な解決・赦し」です。

前述したように、イスラエルの民はモーセの律法下において、何千何万という動物をイスラエルの罪を贖うためのいけにえとして屠って来たのですが、それは不完全で一時的なものでした。

しかし、「新しい契約」においては、100%神であり100%人である罪のないイエス・キリストが「最後の犠牲の動物(小羊)」として十字架刑を通してその身を裂いて下さったので、イスラエルだけではなく、全人類の罪が完全に赦される土台が出来上がったのです。

「モーセ契約」(旧い契約)はそもそも罪からの救いを約束する契約ではありません。アブラハム契約を受けた契約の民イスラエルが、約束の地カナンでいかに「神の民としてふさわしく異邦人の模範となるように祝された生活をするか」という規範を示すものです。

またその契約で約束された祝福を得るには「モーセの律法に従う」という条件が付いていましたそれ故にイスラエルの民はその祝福の享受に失敗したのです。

それに対して「新しい契約」は罪からの完全な赦し、救いを約束するものです。しかもこの「新しい契約」による祝福は、信仰と恵みによって神から一方的に与えられるものであり、無条件です

無条件、ということは、そこに人間の努力や取引が介入する余地がない、ということです

イスラエルも、今現在は残念ながら民族としてイエス・キリストを拒否している状態ですが、最終的にはナザレのイエスをイスラエルのメシアとして受け入れ、民族的な救い、また物理的、霊的な回復を経験することになります。

つまり、イスラエルは将来、その罪が完全に赦されるばかりではなく、旧約聖書で彼らに約束されていた「本来の祝福」の全てを受け取る、ということになるのです。

このことの成就には、無条件で人間と結ばれた契約を必ず守られる神の主権がかかっています。

ここにこそ神の恵みがあるのであり、無条件契約である「新しい契約」がイスラエルを当事者として結ばれた意味があるのです。

中には「新しい契約は教会(大体においてこの場合は異邦人の教会)に与えられた」と主張する神学体系もありますが、聖書を字義通り読む限りはそのような結論を導き出すのは困難です。

あくまで「新しい契約」の受け手は、「旧い契約」である「モーセ契約」の当事者であり、「モーセの律法」の支配下にあったイスラエルの民です。

聖書は一貫して、神の人類救済計画の中心はイスラエルであることを示しています

異邦人はイスラエルのメシアであるイエス・キリストの福音を信じる信仰と、そこに働く神の恵みを通して、そのイスラエルに与えられた契約と、それに伴う祝福に与ることが出来るのです。

それは「イスラエルと異邦人」を隔てていた「モーセの律法」という障壁が「新しい契約」によって取り払われた故に、可能となったのです。

確かにクリスチャンの中にも、今は新約時代だと言うことで、旧約聖書を読んで学ぶことにあまり価値を見出していない風潮があるにはあります。

新約聖書を読んだだけで「恵まれた気分」になり、正直、新約聖書の知識だけで何か十分なクリスチャンとしての働きが出来そうな気がしてしまうからです。

しかしだからといって、旧約を読まなくても良い、とする理由にはなりませんし、ましてや「なかったもの」として扱って良いものではありません。

今回見たように、新約は旧約という文脈、連続性の中にあるのです。

神が人類に啓示されたそのご計画の総体は、旧約聖書の理解を通して初めて把握されるものであり、その深さに触れた時、人は更に聖書の持つ力に感動し、土台のしっかりとした信仰を持つに至るのです。

旧約聖書の理解がないクリスチャンは霊的に成長しません。

​聖書はそのような構造になっているのです。

まだクリスチャンではない方も、是非、今この時、全ての人に提示されている神の無条件の愛、救いの祝福を、イエス・キリストの福音を心で信じることによって受け取って下さい。

そして人知を超えた神の深いご計画に感動する毎日を歩んでみてはいかがでしょうか。

​心よりお勧め致します。

 

#21

「人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。

(ルカの福音書 19章10節)

​欧米のみならず、日本でも、世界中で「イエス・キリスト」の名前は知れ渡っていますが、そのイエス・キリストがどのような目的を持ってこの地上を歩まれたかについては、正しく理解されているとは言えません。

クリスチャンではない、いわゆる宗教学を学んだ学者たちが伝えている一般的な見解では、「イエス・キリストは既成のユダヤ教に野心的に反発し、新しい宗教を作ろうとした」とし、「イエスは宗教的革命家」というところで落ち着いているのかも知れません。

しかし(もうこのサイトの論調に慣れた方であれば次の展開が想像できると思いますが)、それは正しくありません。

イエスは「宗教」に革命を起こそうとしたのではありません。

イエス・キリストは私たち全人類の「永遠の行き場所」に革命を起こしたのです。

今回はそのことについて、聖書に登場する一人の人物を通してお伝えしたいと思います。

「それからイエスはエリコに入り、町の中を通っておられた。

 するとそこに、ザアカイという名の人がいた。彼は取税人のかしらで、金持ちであった。

(ルカの福音書 19章1~2節)

さて、「ザアカイ」という人物です。

ザアカイはユダヤ人の取税人であり、イエス・キリストが地上を歩まれた時に中東のエリコという町で生きていた実際の人物です。

十二使徒の回のマタイのところで簡単には触れていますが、先ずは「取税人」という職業についてもう少し詳しく解説したいと思います。

「取税人」とはその字のごとく、税金を人々から徴収する仕事に従事していた人のことです。

しかし、現代社会の国税局の職員とは違い、この聖書時代のユダヤ社会における取税人は、ローマ帝国の代理人として、悪辣な方法で同胞であるユダヤの人々からお金をむしり取っていました。

ローマ帝国は当時のユダヤ社会を支配し、その統治政策の一環として、「税を取る」という皆から嫌われる仕事をあえて同じ被支配者層のユダヤ人に与えて、その民族的一致を阻害しようと画策していたのです。

取税人の職は基本的に入札制で、最高額を入れた者(ユダヤ人)に与えられていました。

そして、その仕事は取税人になった者に大きな利益をもたらしていました。

民衆から集めた額と、ローマ帝国に上納する額との差額が、その取税人の収入となっていたからです。

よって、殆どの取税人は少しでも多くの額を懐に入れようと、税金という名目で、ことあるごとに難癖をつけては人々からお金を巻き上げ、結果として裕福になっていたのです。

つまり、取税人とは、同胞のユダヤ人たちから見れば「お金のためにローマ帝国に魂を売った売国奴、守銭奴」であり、見下げられるべき存在であったのです。

実際にユダヤ教の口伝律法では、取税人になることを禁止し、また交流を持つことも罪深いこと、禁止事項としていました。

そのため、取税人になった者は親族からも絶縁され、ユダヤ教のコミュニティからも追放され、同じ取税人同士、または同じようにユダヤ教指導者たちから「罪人」とされていた遊女たちとの交流しか持てない状態となりました。完全にアウトサイダーです。

取税人は富は得ても、ユダヤ人としての当たり前の幸せ、日常は失っていたのです(もちろん、それこそがローマ帝国の目論であったのですが)。

ザアカイはそのような取税人であり、しかもその「かしら」と記されています。つまり親分です。

元々、ここに出て来るエリコという町は国境の町で商品の行き来が活発であり、通行税を取る取税人たちで溢れ返っていました(ちなみに十二使徒のマタイはカペナウムという町で、同じように通行税を取る取税人として生活していました)。

恐らく、ザアカイはエリコの取税人たちを取り仕切り、定期的にローマ帝国に多額のお金を上納していたことでしょう。彼が手にするマージン(しのぎ)も相当な額であったはずです。

生き馬の目を抜くようなアウトサイダーが跋扈する取税人世界にあって、そのような立場にまで「出世」するのは並大抵のことではありません。

ザアカイは度胸があり、また地頭の良い人間だったと思われます。

どのような経緯で彼が取税人に身を落としたのかはわかりませんが、しかし彼はその自分の長所を「ただ富を得ること」のみに利用していたのです。

「彼(ザアカイ)はイエスがどんな方かを見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。

(ルカの福音書 19章3節)

ユダヤの各地で「預言者だ、メシアだ」と評判のナザレのイエスがザアカイの住むエリコの町に到着し、町の中を弟子たちと共に通ろうとされています。

町の多くの者がイエスを見ようと、可能であれば触れようとイエスの周囲に群がり、お祭り騒ぎのようになっています。

ザアカイもまた例外ではありません。

特に取税人の広い情報ネットワークを持つザアカイは、一般の人たちよりもより多くのイエスに関する情報を手にしていたことでしょう。

曰く、イエスはユダヤ教の指導者たちから排斥されている病人、弱者、遊女、取税人たちに優しい、そのような者たちの家に行き、一緒に飲み食いをしたりする。

曰く、しかもただ優しいだけではなく、治りそうにもない病気を治したり、論争を仕掛けるユダヤ教指導者たちをことごとく論破する、そのような実際的な力と知恵を持っている。

そしてそのイエスに付き従う十二弟子の中には元取税人もいる、という。

取税人の親分にまで上り詰めたザアカイは、一方で、出世すればするほど自分の心が闇に覆われ、「本来の自分」から離れて行ってしまっていることを日々実感していたのかも知れません。

富は溜まっても、そこには何の救いもないことを、彼は十分に理解していたと思われます。

心の中にある、どうやっても摘み取ることができない空しさとその苦しみは、もしかしたらメシアと評判のナザレのイエスが解決してくれるかも知れない。

ザアカイが多くの野次馬とは違い、そのような切実な思いを持ってイエスを見よう、近付こうとしたとしても何ら不思議ではないと思います。

しかしザアカイには一つ、決定的な特徴がありました。

「背が低い」、ということです。

元々嫌われ者の取税人ですので、誰もザアカイを気にかけてイエスが見えるところまで道を開けてくれる者はいません。

そこでザアカイは持ち前の地頭の良さと度胸を駆使します。

「それで、先の方に走って行き、イエスを見ようとして、いちじく桑の木に登った。イエスがそこを通り過ぎようとしておられたからであった。

(ルカの福音書 19章4節)

伝統や慣例を無闇に軽視するのは奨励されることではありませんが、しかし時として、現状を打破し、活路を切り拓くためには、「それまでの形に囚われない発想、行動」を受け入れる必要があることを、個人レベルでも組織レベルでも認めなくてはならないと思います。

少なくともザアカイはここで、仮にも自分は取税人のかしらで、大金持ちである、というプライドは一切持たず、子供のようにいちじく桑の木に登り、誰よりも清々とイエスを見ることが出来る「一番良い場所」を手にしました。

普段は「背が小さい」ことは彼にとってマイナス要因だったのかも知れませんが、ここに来て彼はそれをむしろプラス要因へと変えたのです。

ここに取税人の長としてのし上がった所以とも言える、ザアカイの如才なさが見えるような気がします。

「イエスはその場所に来ると、上を見上げて彼に言われた。

『ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから』。

(ルカの福音書 19章5節)

イエスの方からザアカイに声を掛けました。

ザアカイのようないい年をして木に登っているような人物は目立ったから、ということもあったのかも知れませんが、そうではなくイエスは前もって、どのタイミングでザアカイに会うのか知っておられた、と理解する方が自然かと思われます。というのは、イエスは面識もないのに、既に「ザアカイ」という名前を知っていたからです。

聖書の神は私たち一人一人の名前を呼んで、個別に語りかけられるお方です。

かくして、ザアカイは人類で唯一、神から見上げられた男となりました。

そしてイエスは間髪入れず、更に驚くべきことを言われます。

「急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから」。

「急いで降りて来なさい」というイエスの呼び掛けは、まるで「もうそんな取税人としての人生を続けるのは止めして、あなた本来の生き方、神に従う人生を生きなさい。わたしはそれを喜んで受け入れている」という招きの言葉に聞こえます。

「わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから」。

ザアカイ本人の承諾もないのに、勝手に決めてしまったの?と思われるかもしれませんが、当時はホテルや旅館などはなく、旅人は町に入ると、その町にいる親類や親しい友人の家に宿泊することが常識でした。

つまりイエスはザアカイを「一緒に夕食を食べ、床に就くまで語らいたい友人である」と認めたことを伝えているのです。

この瞬間、どれ程の光量がザアカイの心に入って来たでしょうか。彼はどれ程、安らいだでしょうか。

それまでの彼の中に植わっていた、そのひねくれた生き方を正当化していた世界が一挙に崩壊し、背負っていた重荷が全て取り外されたに違いありません。

ちなみにザアカイという名には「純粋」という意味があります。

ザアカイは恐らく、このイエスの言葉に、そのような名前を付けてくれた自分の両親に似た、いやそれ以上の、懐かしくもあり全く新しい温かみを実感したはずです。

例えあなたが人から疎まれるようなことがり、除け者にされたとしても、結果としてあえて正しい道から踏み外してしまったとしても、あなたの造り主である神はあなたの親であり、またあなたを友と見ています。

神はあなたの悪ではなく、あなたの優しさ、善を求める心の清さを見ておられるのです。

「ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。

 人々はみな、これを見て、『あの人は罪人のところへ行って客となった』と文句を言った。

(ルカの福音書 19章6~7節)

イエスの声掛けにザアカイは反応し、喜んでイエスを家に迎えました。

このザアカイの姿には、イエスを「個人的な救い主」として受け入れている信仰が見え、この時点で彼は魂の救いを得ていると思われます。

誰でも神に心を開くなら、その人は救われるのです。

問題は群衆の方です。

ご利益信仰的にイエスに群がっていた人々は、何故メシアと評判のイエスが、ザアカイのようなならず者の家に泊まろうとするのか理解が出来ません。

「あの人は罪人のところへ行って客となった」。

この発言は神の視点から見れば皮肉とも言えるものです。

人々はイエスの行動が理解できない上でそのように蔑み、つぶやいているのですが、しかしそれこそが人として受肉し、この罪人の世界に来られた子なる神、キリストの真実の姿なのです。

彼らの問題は、彼らも神から見ればザアカイと変わらない「罪人」である、そのことに気付いていない、ということです。

「しかし、ザアカイは立ち上がり、主に言った。『主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します。』」

(ルカの福音書 19章8節)

ザアカイは取税人として築き上げた財産の半分を貧しい人たちに、そして脅し取った物は四倍にして返すとイエスに約束します。

この四倍の返済は、当時のユダヤ人に神から与えられていたモーセの律法で規定されている要求以上のものです(詳しくは 出エジプト記22:4,7 レビ記6:5 民数記5:7 を参照してください)。

これはザアカイがそのような慈善活動をしようとすることを誇ったり、またそうすることで救いを得ようとしているのではありません。

そうではなく、魂の生まれ変わりを受けた彼が、新生した者として、自分の過去の罪、悪事に対して相応の賠償をしようと宣言しているのです。

人は魂の救いを通して、全ての罪を赦される神の愛と恵みの深さを知り、それによってその神を知る者として「何をすることが相応しいのか」を判断することが出来るようになります。

行いが人を変えるのではありません。

神の恵みが人を変え、その結果として行いが伴ってくるのです。

この順番がとても大切です。

「イエスは彼に言われた。

『今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。』」

(ルカの福音書 19章9節)

イエスはザアカイの変化が魂の救いによるものであることを認め、「今日、救いがザアカイの家に来た」と宣言されました。

イエスを自分の救い主と受け入れれば、その瞬間に人は救われます。

「この人もアブラハムの子なのですから」とイエスは続けましたが、これは現代に生きる日本人にとっては説明がないと意味が通じません。

前々回(「一神教の神は皆同じ?」)でも取り上げましたが、基本的にパリサイ派というユダヤ教の宗派では、「アブラハムの子孫(ユダヤ人)であれば皆が天国に行ける」と教えていました。

例外として、「キリスト教に改宗したユダヤ人は天国の門でアブラハムに追い払われる」という教えを付加していますが、この規定はクリスチャンが増えだしてから設けられたものです。

このザアカイがイエスを迎えた時の、パリサイ派における「天国に行けない例外的なユダヤ人」は、取税人や遊女たちです。

つまり、ここでのイエスのこの発言は、そのようなパリサイ派神学に対する強烈なアンチテーゼなのです。

ザアカイは先祖のアブラハムに倣う信仰を発揮しました。

幼子のように、神を受け入れる、という信仰です。

その信仰が、彼を血統以上に、霊的な意味で、「本当のアブラハムの子」としたのです。

血統的にユダヤ人であっても、立派なパリサイ人であっても、アブラハムに倣う信仰がなければ救われません。

しかしその信仰をもってイエスを受け入れるのであれば、その人が取税人であろうが関係なく救われる、ということをイエスは主張されたのです。

「『人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。』

(ルカの福音書 19章10節)

これこそが子なる神、キリストがナザレのイエスとして受肉され、この世界に来て下さった目的です。

個人個人、様々な生い立ちがあり、抱えている苦しみもそれぞれにあるかと思いますが、イエス・キリストを知らない全ての人は、神の目から見れば、一様にザアカイと同じく「自分の造り主である神を失い、本来の自分を失っている者」です。

「失われた者」は肉体は生きていても、神による霊的な命を失っています。

そしてその肉体の死後は、「本当の死」を身に受けなくてはなりません。

「本当の死」とは「永遠の死」です。

永遠に神から切り離され、光を放たない熱だけの炎によって、真っ暗闇の中を永遠に焼かれ続けるのです。

イエス・キリストは宗教を始めたのではありません。

いわゆる「宗教」はイエスの目的ではありません。

「宗教」は私たちの永遠の住まいに変改をもたらしません。いくら「宗教」に熱心でも、イエス・キリストを通して父なる神に立ち返らなければ、全ての人は「失われた者」のままです。

ザアカイに樹の下から声をかけたイエスは今も、聖書を通して私たち一人一人を救いへと招いておられます。

今もイエスは「失われた者」を捜しておられます。

どうか今、イエス・キリストの福音を心で信じ、あなた本来の命を得て下さい。

心よりお勧め致します。

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© 2020 Takuto Oshiro