#1
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
(ヨハネの福音書 3章16節)
この聖書の言葉は「聖書のミニチュア」とも呼ばれる箇所で、聖書が語る内容が凝縮されています。
ここでの「神」とは、「人間が作った」哲学や空想上の産物としての「神々」ではなく、「人間を造られた」創造主のことです。
「ひとり子」とはイエス・キリストのことです。
「神は愛の方なので、愛する人間がその罪によって一人でも滅びないように、神ご自身が犠牲になられた」。
それが聖書のメッセージです。
聖書は私達の造り主、親である神が、その子供である私達人間一人一人に宛てたラブレターです。
この世界の殆どの宗教は「人がどのように努力すれば更なる高みに行けるか・神のようになれるか」を教えますが、聖書の語ることはそれとは真逆です。聖書は「神であるイエス・キリストの方から、罪ある私達の方に近付いて来てくださった」ということを教えています。
どうか今、あなたも神から差し出されたラブレターである聖書を受け取ってみてください。
そこにはあなた個人に宛てられた神の愛が書き綴られているはずです。
#2
「あなたの指のわざである、あなたの天、あなたが整えられた月や星を見るに、人とは何者なのでしょう。あなたが心に留められるとは。人の子とはいったい何者なのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。」
(詩篇 8篇3~4節)
この聖書の言葉は、今から約3000年ほど前、イスラエルのダビデという王様が詩の形で残したものです。
ダビデは王様となる前は、大自然の中で羊飼いとして生活をしていました。ダビデは空や天体を見上げて「自分の存在とは何か」を思い巡らせていました。
ここでダビデが語りかけている「あなた」とは、宇宙の何から何まで、その一切を全てを造られた本当の神、創造主のことです。
ダビデはその神が、小さな人間存在を広大な宇宙よりも遥かに価値があるものとされていることに驚き、感動しています。実に聖書の神は、人間が自身の創造主を認識し、その創造主をほめたたえることができるようにと全宇宙を運行し、整えておられるのです。
自動車がメーカーによって人間を乗せるために作られたように、全ての「造られたもの」にはそれを「造った存在」があり、目的があります。
意図と目的をもって万物を造られた神、人間一人一人を愛をもって造って下さった神を知っていたダビデは「自分の存在目的」を知っていたのでした。
ダビデは「自分は神の喜びのために生かされている」という確信と平安を持っていたのです。
現在のところ、人間存在の起源を説明しようとすれば、進化論か創造論しかありません。
どちらも、宇宙の誕生や人間の起源について、過去に一度限り起こったことについて語っていますが、どちらも、それを誰もが目に見える形で証明することは出来ません。
どちらも「信仰」の世界なのです。
しかし聖書の内容は科学的な発見と矛盾しません。また「創造主は存在する」という確かな情報を提供しています。
何よりも聖書には希望があります。
「自分はどこから来て、どこへ行こうとするのか」。
その問いに対する答えがあります。
進化論は「あなたは猿と共通の先祖らしきものから長時間かけて進化した偶然の産物に過ぎない」と言います。
一方で聖書は「あなたは神によって目的を持って造られた神の作品だ」と語りかけます。
あなたはどちらを受け取りたいですか?
#3
#4
「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている。」
(へブル人への手紙 9章27節)
場所や時代や文化、環境を超えて、どのような人にも共通して必ず起こる現象とは何でしょうか?
それは「生まれることと、死ぬこと」です。
人は生まれたのであれば、必ずいつかは死にます。
それは宗教でも哲学でもない、現実です。
その誰しもが認める現実を、聖書は取り扱っています。
そしてその聖書が語る現実は、「肉体の死後」のことにも及んでいます。
どのような人も、肉体の死後、必ず神の裁きを受けなくてはならない、ということです。
聖書の神はあなたの造り主であり、あなた以上にあなたのことをご存知です。
あなたが「隠し通せた」と思っている罪も、全て、大小関わらず何から何まで知っておられます。
聖書は、仏教徒であれ、無宗教、無神論者であれ、全ての人が肉体の死後、この神の前に立たなければならない、と教えています。
肉体の死がどのような人にとっても現実であるのなら、その後の神の裁きも、全ての人にとって現実なのです。
今までたまたま聖書やイエス・キリストと無関係な人生を歩んで来て、それで良かったのかも知れません。
しかし生まれてきた以上、死と、その先にある神の裁きに対して無関係でいられることはできません。
聖書の神は愛であると同時に正義の神でもあられるので、いかなる罪も見過ごすことはありません。
これはバッドニュース(悪い知らせ)です。
しかし、そうであるならば、誰にとっても聖書のメッセージ、福音は意味があります。
福音とは何でしょう。
それは…、
神であるイエス・キリストがあなたの罪を背負い、あなたの代わりに十字架で死なれ、また墓に葬られて、3日後に死から復活した、ということ。つまり、イエス・キリストがあなたの罪と死の問題を既に完全に解決してくださった、というグッドニュース(良き知らせ)のことなのです。
神を無視して生きていても、必ず神と対面する時が来ます。
その時、その神の裁きに対して無罪を勝ち取ることができるのは、死ぬ前に福音の語る内容を信頼し、イエス・キリストを自分の救い主と信じた人だけです。
この聖書が語る事実を今、厳粛に受け取るべきではないでしょうか。
#5
#6
「ご覧ください。私は咎(とが)ある者として生まれ、罪ある者として、母は私を身ごもりました。」
(詩篇 51篇5節)
私たち日本人が「罪」という言葉を聞いて、通常、何を連想するでしょうか?
恐らく、警察に逮捕されて牢獄に入れられている姿であったり、社会規範に反する何かしらの悪いこと、つまり犯罪行為をイメージするかと思います。
「罪?私は警察に捕まったことはないから犯罪者じゃないよ」、「逮捕されたあの人は罪ある人だ」、と考える傾向が私たちにあるのではないでしょうか。
しかし、聖書が語る「罪」とは、「外面的な犯罪行為」ではなく「内面の状態」のことを指しています。
「罪を犯したから罪人」なのではなく、「罪を犯す性質があるから罪人」なのです。
「嘘をついた行為の故にその人は嘘つきになる」のではなく、「嘘をつく、という性質を元から内側に宿している故に、その人は嘘つきになる」のです。
このような「人間の内面にある罪の性質」を、聖書は「原罪」と呼んでいます。
(厳密に言えば、聖書の中で「原罪」という単語は登場しません。しかし、上記の聖書箇所のように、その概念を指し示している言葉が聖書には多く記されています)。
ではその「原罪」はどのようにして私たちの内側に入って来たのでしょうか?
それを説明するには、神が造られた最初の人間、アダムにまで遡らなければなりません。
神は罪を作られないお方ですので、創造された当初のアダムは罪のない状態でした。
「罪が何たるかを知っていて、罪を犯さない」のではなく、「罪そのものを知らない無垢な赤ちゃんのような状態」でした。
しかし、ある時、アダムは悪魔の誘惑によって、結果として罪を犯してしまいます。
その瞬間、アダムは「罪人」となり、それまで彼の内側になかった「罪の性質」が埋め込まれてしまいます。
罪とは「神の性質に反する全てのこと」です。
その「神に反逆する性質」、いわば「原罪」が、アダムの子どもたちに、そしてその子どもたちにへと、両親を通じて今の私たちに受け継がれて来ているのです。上の聖書箇所は、実にそのことを歌っているのです。
聖書は「罪の報酬は死である」と宣言しています。
そして、「すべての人は生まれながらに罪人であり、自分で自分を『罪のない者』とすることはできない。自力救済は不可能である」と教えています。
ですので、全ての人が例外なくイエス・キリストの福音が必要なのです。
原罪のないイエス・キリストのみが、あなたを神のもとへと導きます。
#7
「ちょうど一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして、すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がりました。」
(ローマ人への手紙 5章12節)
先ほどは「原罪」について説明しましたが、今回は「転嫁された罪」について考えてみたいと思います。
上の聖書箇所にある「ちょうど一人の人」とは、先ほども紹介した最初の人間、アダムのことです。
アダムも、そして彼の妻として創造されたイヴも、創造された当初は罪がない状態であり、死とは無縁の状態でした。
聖書によれば、死とは罪の結果です。
肉体的にも、霊(神とコミュニケーションする目に見えない領域)的にも、創造された当初のアダムとイヴはずっと生き続ける存在でした。
(驚くべきことですが、死とは本来、神の創造の業からは生まれて来ない「不自然なもの」であると言えます。本来は、死は宇宙に存在すべきではないのです。神が罪の作者でないのであれば、当然そのような結論となります)。
しかしある時、イヴが悪魔に誘惑され、アダムが「神のルールを破る」という罪を犯したその瞬間、アダムと彼に続く全人類は「罪人」となりました。
これが「転嫁された罪」です。
前述の「原罪」(アダム以来、両親を介して継承されて来た罪の性質)とは違い、「転嫁された罪」とは、アダムから各個人に直接伝達される罪です。
私たち本人には身に覚えはなくても、私たちの先祖であるアダムが犯した罪、「神のルールを破る」というたった一点の罪が、その子孫である私たちが犯した罪として、一人一人に「転嫁」されてしまったのです。
私たち全人類は例外なしに、原罪による現在進行形の個人的な罪のためだけではなく、アダムの罪のためにも、生まれながらに有罪なのです。
私たちはこの「アダムが犯した罪」によって、霊的には神から切り離された死んだ状態となり、肉体的にも、時間が経過すれば死んでしまう存在となってしまいました。
そして霊的に死んだまま肉体の死を迎えるのならば、その行き先は、いわゆる「地獄」です。
つまり、永遠に神から切り離された世界、永遠に霊も肉体も消えない炎で燃やされ続ける世界、「永遠の死」と呼ばれる一切の希望のない世界へと行かざるを得ないのです。
しかしこれと全く同じ原理で、神の私たち一人一人に対する救いの業が行われています。
それがイエス・キリストの福音です。
「罪のない神であるイエス・キリストが人となって、あなたの罪を負って十字架で死なれた。そして墓に葬られて後、3日目に死から復活した」
この良き知らせ(Good News)を信じることによって、私たち本人には身に覚えはなくても、イエス・キリストの「きよさ(罪のない状態)」が信じた者に転嫁され、神から「罪がない者」となされます。
私たちは罪人であることには変わりはありませんが、福音に対する信頼(信仰)を通して、神から「罪が赦された者」と宣言されるのです。
またその瞬間に、それまで死んでいた霊の領域が生き返ります。
罪が赦され、霊が生き返った状態であるのなら、肉体の死を迎えた後、永遠に神と共に過ごす平安の場所、いわゆる「天国」へと行くことができるのです。
聖書はこれを「恵み」と呼んでいます。
最初の人間であるアダムも、イエス・キリストも、共に原罪を宿さない状態で、超自然的にこの世に誕生しました。
しかしアダムは罪を全人類に持ち込みました。
一方でイエス・キリストは罪からの解放を私たちに提供しています。
この相関関係の故に、イエス・キリストは聖書の中において、「最後のアダム」と呼ばれています。
「最初の人」アダムが全人類に対して犯したことは「罪の転嫁」でしたが、「最後のアダム」キリストが全人類に対してなしてくださったことは「義(正しさ)の転嫁」です。
「義の転嫁」を受けた者はもはや「アダムに属する者」ではなく、「キリストに属する者」とされるのです。
あなたは「最初のアダム」に繋がったままでいたいですか?
それとも「最後のアダム」であるイエス・キリストに繋がりたいですか?
#8
「はじめに神が天と地を創造された。」
(創世記 1章1節)
聖書に書かれてある内容は、果たして本当に非科学的なものなのでしょうか?
聖書は「永遠のベストセラー」と呼ばれています。近年の世界の年間総分布数は、約4億冊と言われており、他の書籍を圧倒しています(ハリー・ポッターシリーズ全7巻の総発行部数で約4億5000万冊)。またこれまでに約2200以上の言語に翻訳されており、更に約1500の言語への翻訳が現在も進行中です。
もし聖書が、科学的検証に耐えきれない、時代錯誤な神話のようなものであるのなら、ここまで人々を惹き付けることはないでしょう。科学者がよってたかって吟味しても、「非科学的だ」と簡単に切って捨てられる書物ではないから、21世紀の今日に至るまで読み継がれ、更にその影響力を強めているのではないでしょうか。
故スティーヴン・ホーキングやリチャード・ドーキンスのように、確かに「神はいない」という立場を貫く著名な科学者もいます。
しかし、一方で、「神はおられる」と確信し、研究に取り組んでいる科学者も多数存在します。
例を挙げれば、『ゲノムと聖書』の著者であるフランシス・コリンズ、オックスフォード大学の数学教授であるジョン・レノックス、ガリレイやケプラー、ニュートンなどの偉大な科学者も、「神が宇宙を創造した」という上記の聖書の言葉を信じているクリスチャンでした。
(ちなみにアインシュタインも、クリスチャンではありませんでしたが創造主である神を信じていました)。
このように、聖書は非科学的どころか、むしろ科学的です。現代科学の礎を作った科学者たちに支持され、その科学的発見に貢献してきた事実があるのです。
そもそも、科学とは「既に存在する自然界の観察・分析」です。
つまり科学的営みの本質とは、「万物の第一原因者である神」の創造の結果に対して、「科学」というラベルを貼って確認して行く行為なのです。
それは聖書を信じる科学者にとっては、神を讃える礼拝ともなり得ます。
聖書は確かに「科学的な言語」を使って書かれた書物ではありません。しかし、科学が創造主である神の業の痕跡を辿るものであるならば、その神が人に宛てて書かれた聖書を信じる信仰と科学とは矛盾しないのです。
その視点を持てば、少なくとも、科学的営みをもってして、宇宙を造られた神を否定しようとすることは、論理上、不可能なことであると言えます。何故なら、既にその科学者の目に映っている世界が、神の存在を証明しているからです。
神の存在を信じている科学者は、確かに「神は存在する」という前提のもとに科学的営みをしています。
しかし同じように、無神論を信じている科学者も「神は存在しない。するはずがない」という前提に立って、その前提を証明しようと科学に取り組んでいるのです。
ですから、例え聖書が示す創造主の存在を肯定するような科学的発見がなされたとしても、無神論者はそれを否定的にしか取り扱いません。否定的前提に立つ限り、そこからは否定しか生まれて来ないのです。
つまり、どちらも「信仰」によって、自らの見ている世界を決めていると言えるのです。
神は常に、あなたがその与えられた信仰心をどこに傾けるかを見ておられます。
「神を求める世界」か。
それとも、「神に背を向ける世界」か。
今、あなたの目はどちらに向いていますか?
#9
#10
「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」
(ローマ人への手紙 6章23節)
この聖書箇所には、聖書が示す「良い知らせ」と「悪い知らせ」の両方が端的に語られています。
前半部分は「悪い知らせ」、後半部分が「良い知らせ」です。
ところで、日本語の罪という言葉は、一説には「包み込む」という言葉がルーツとなっていると言われています。包んで覆い隠してしまうことを罪だと考えるならば、それはそれでどこか聖書的な含蓄があるように感じます。
一方で、この箇所を始め、新約聖書で「罪」と日本語に訳されているギリシャ語は、そのほとんどが「ハマルティア」という言葉です。
※(新約聖書はギリシャ語で、旧約聖書は一部を除いてヘブライ語で書かれています)。
その「ハマルティア」の主な意味は、「的外れ」です。
「的を外してしまっている状態」が、聖書では「罪」とされているのです。
「宗教的な戒律を守れないこと」が罪なのではありません。聖書が示す「罪」とは、そのような限定的で表面的なことではなく、もっと普遍的かつ、根源的なことなのです。
では、その「的」とは何でしょう?一体何の「的」を外しているのでしょうか?
それは「自らの造り主である神」という的です。
創造主によって造られて、生かされているにも関わらず、その神を無視していること、自分が的の中心となっている生き方を、聖書は「的外れ=罪」である、と断言しているのです。
その「的外れ」の具体的な現われが、偶像礼拝です。
偶像礼拝とは、いわゆる「宗教的なくくりの中にある特別な行為」ではありません。仏像や、木や石でできた像を拝んでいる状態のみを指しているのではありません。自分の造り主である神以外の何かに、心が奪われている状態を聖書は「偶像礼拝」と位置付けています。
それはある人にとってはタバコやアルコール、嗜好品かも知れません。またある人にとっては、お金や仕事、ステータスかも知れません。またある人にとっては友人や恋人、助言者、家族かも知れません。
とある元麻薬中毒者であった牧師がテレビでこのように語っていました。
「イエス・キリストに中毒にならない限り、人は何かしらの中毒である」と。
彼のその言葉を借りれば、偶像礼拝は「中毒症・依存症」と言い換えることもできます。
ちなみに、クリスチャンにとっても偶像礼拝は無縁ではありません。「キリスト教」や「教会」という宗教組織が、イエス・キリストよりも大切になってしまった時、それらはクリスチャンにとっての偶像となるのです。
どのようなことにせよ、「自分の神は自分で決める」という状態、神以外の何かを自分の「神々」に据えて、それに考えや行動が支配されてしまっている状態を、聖書は、「的外れ」であり、「偶像礼拝」であり、「罪」である、としています。
その基準で行けば、全人類は例外なく罪人です。
現に私たちの周囲を見渡せば、キリストを除外し、キリスト以外の何かに自分の人生の救いを見出そうとする姿こそが「普通の姿」とされているではありませんか。
そして、この箇所でも示されている通り、その的外れな生き方の結果、その人が受けるべき報酬は、「死」なのです。
ここでの「報酬」は「オプソォニオン」というギリシャ語です。
これは「将軍が兵士に支払う給与」という意味があり、いわば日当です。
「生まれながらの人は、的外れ(罪)という主人のために毎日働く兵士(奴隷)であり、毎日『死』という日当が支払われている」。
それがこの聖書箇所の前半のメッセージであり、「悪い知らせ」です。
一転して後半部分は「良い知らせ」が語られています。
「神の賜物」の「賜物」とは、ギリシャ語で「カリスマ」です。
一時期は「カリスマ美容師」や「カリスマ教師」など、「人気と実力を兼ね備えた人」を形容する言葉として「カリスマ」が使われ、日本語としての市民権を得たような感がありますが、本来は「聖書の神が与えてくださるプレゼント」を意味している言葉なのです。
プレゼントであるならば、それは無償の贈り物です。
そしてその贈り物の中身は、「主キリスト・イエスにある永遠のいのち」です。
ここに前半部分との対比があります。
神からの無償の贈り物を受け取った人は、誰であれ、無代価で、永遠のいのち、天国が約束されているのです。滅びゆく偶像ではなく、永遠の神がその人の「主人」となり、肉体の死後はその永遠の神と共に、永遠に豊かな、本当にあなたが求めていた満たしのある人生を歩むことができるのです。
この無償のプレゼントは今、全ての人の前に差し出されています。
繰り返しますが、このプレゼントは無償です。
受け取る側である私たち人間に対して、行いや努力、支払うべき何かは一切求められていません。
プレゼントの代金は既に神の側で支払われています。
私たちがすべきことは、ただ「信頼して受け取る」ということのみです。
福音(良い知らせ)の内容を信じる、ということによって、ただそれだけによって、神からのプレゼントを受け取ることができるのです。
福音とは、
罪のない神であるイエス・キリストが、あなたが本来受けるべき罪の報酬である死を、あなたの身代わりとなって、罪そのものとなって、十字架に自らかかることによってその身に受けてくださった、ということ。
そしてキリストは墓に葬られた後に、約束通り、3日目に復活した、ということ。
復活によって、神は死に勝利されること、またその神が遣わした御子キリストを信じる者もキリストと同じように復活することが証明されました。
このキリストの福音(良き知らせ)を信じるのであれば、どのような人でも、もはや死に飲み込まれてしまうことはありません。
やがて滅びく行く偶像を神に見立てて、行先の分からない死後の恐怖を何とか紛らわそうとする努力も、もはや必要ありません。
肉体は死んでも、その霊の帰るところが明確であり、いずれ肉体も完全な形で復活し、永遠の神と共に永遠の平安を楽しむことが約束されているからです。
人は「自分が仕えているもの」と運命を共にしてしまいます。
この世の滅びゆく何かに仕えているのであれば、同じように滅んで行きます。しかし永遠の神に仕えるのであれば、永遠の神と共に生きるのです。
クリスチャンとは「自分の仕えるべき主人がチェンジした人々」です。
自分の造り主以外のものに仕えていることが「的外れ」であった、と神の恵みによって知ることができた人々です。
今、あなたを支配しているあなたの「主人」は誰ですか?
#11
「私(パウロ)がどのようなことばで福音を伝えたか、あなたがたがしっかりと覚えているなら、この福音によって救われます。そうでなければ、あなたがたが信じたことは無駄になってしまいます。」
(コリント人への手紙 第1 15章2節)
長らく、日本のクリスチャン人口は統計上、1%以下だと言われ続けて来ています。
これはクリスチャンが自由に活動することを許していない国々(例えば中国のクリスチャン人口は5%)と比較しても少ない割合であり、いかに日本において「自分はクリスチャンである」という自己認識を持って生きている人間が稀有な存在であるかを物語っています。
ただし、それはあくまで「自己認識している」人々の数字であって、果たして本当にその全員が、聖書的な意味でのクリスチャンであるとは限りません。
実際のところ、日本における「本当の意味でのクリスチャン」の人口は、0.5%にも満たないのではないでしょうか。
ここで恐らく多くの方が、「本当の意味でのクリスチャンって何?」と疑問を持たれるかと思います。
「本当の意味ではない、偽物のクリスチャンなんかいるの?そもそも、クリスチャンって何?」という疑問も次に湧いて来るかも知れません。
クリスチャンとは何でしょうか?
その言葉の意味から、まず紹介したいと思います。
聖書の中で初めて「クリスチャン」(ギリシャ語で「クリスティアノス」)という単語が登場するのは、新約聖書の書物である「使徒の働き」の11章26節です。
「弟子たちはアンティオキアで初めて、キリスト者(クリスティアノス)と呼ばれるようになった。」
この「クリスティアノス」という言葉には、軽蔑の意味が込められており、簡単に言えば「キリスト馬鹿」というニュアンスがあります。
当時(紀元1世紀中頃)のイエス・キリストを信じた人々が、あまりにもキリストのことばかりを言うので、呆れた外部の人々がそのように呼んだのです。
しかし、本来その不名誉であるはずのそのあだ名が、次第に、ごく自然な形で、キリストの弟子であることを示す正式な名称となりました。
周囲が呆れれば呆れるほど、馬鹿にすればするほど、キリストの弟子にとって、それはむしろ自分たちがいかにキリストを愛しているかの証明になるからです。
さて、もう一度改めて、クリスチャンとは何かを考えてみましょう。
クリスチャンとは、キリスト教国やキリスト教の家庭に生まれた人たちのことでしょうか?
それとも努力してキリスト教に入信した人たちのことでしょうか?
それとも、自分がクリスチャンだと思うなら、それでクリスチャンなのでしょうか?
聖書の論理に従って答えるならば、本人の主観や行い、また家庭環境が、その人を「本物のクリスチャン」にすることはありません。
聖書は明確に「人がクリスチャンになる」条件を示しています。
その条件をクリアしない限り、その人は例え聖職者であっても、著名なキリスト教徒であったとしても、「本物のクリスチャン」ではないのです。
それをわかりやすくするために、逆に「よく世間から誤解されているクリスチャンになる条件」の一部を以下に示したいと思います。
・毎週、教会に通う。
・洗礼を受ける。(※1)
・神の存在を認める。(※2)
・キリスト教入門試験のようなテストにパスする。
・仏壇や神棚を処分する。(※3)
・一定額を教会に献金する。
・教会が決めた戒律を守る。
・周囲に自己申告をする。
・「神のような存在に出会う」など、超自然的な体験をする。etc...
もしあなたが、以上のようなことを「クリスチャンになる条件」だと思っておられたのならば、それはキリスト教とされる組織が人々を「教会のメンバーにする」ためだけにこしらえて来た「誤った伝統」に由来する誤解であり、聖書の正しい理解から来ているものではありません。
「誤った伝統」とは「クリスチャンになる=行いによって教会組織に加入する」というものです。
いくら熱心に、努力して、教会組織が提示する条件に達して、教会の一員になったとしても、例えそれで内外から「あなたクリスチャンですね」と認められたとしても、魂の救いを得ていなければ、その人はあらゆる側面から見ても、「本当の意味でのクリスチャン」ではないのです。
聖書は「教会組織の一員になった人」をクリスチャンだと言っているのではなく、「イエス・キリストの福音を信じて魂の救いを得ている人」をクリスチャンだと言っているのです。
先に紹介したアンティオキアで初めて「キリスト者」と呼ばれたキリストの弟子たちも、教会組織の一員である以前に、何よりも福音を信じ、魂の救いを得ている人たちでした。
(※1)洗礼は重要ですが、それは福音を信じて救いを得た人が受けてこそ意味があるものです。洗礼は救いの条件ではありませんし、儀式的に洗礼を受けても、その人はクリスチャンではありません。
(※2)神の存在を認めているだけではクリスチャンではありません。福音への理解、信頼がなければ、その人は「救いを得た本当のクリスチャン」ではないのです。
(※3)仏壇や神棚に手を合わせることは確かに偶像礼拝であり、神に喜ばれるものではありませんが、それらを処分しなければクリスチャンになれない、とは聖書は教えていません。もしそうであれば、日本人はおろか、世界中、誰一人も救われないことになってしまいます。イエス・キリストを神として受け入れるまでは、全人類は例外なく偶像礼拝者なのです。偶像礼拝の真っ只中にいる人でも救われる、それが聖書のメッセージです。人は救いを得てから、自ずと偶像を処分できるようになって来るのです。
もう既におわかりかとは思いますが、聖書が提示する「クリスチャンになる条件」とは至ってシンプルです。
それは「福音を信じること」。ただそれだけです。
福音とは、
罪のない神であるイエス・キリストが、あなたが本来受けるべき罪の報酬である死を、あなたの身代わりとなって、罪そのものとなって、十字架に自らかかることによってその身に受けてくださった、ということ。
そしてキリストは墓に葬られた後に、約束通り、3日目に復活した、ということ。
この福音を信頼することで、その人のそれまで死んでいた霊の領域が生き返ります。
その人の内側が、一瞬にして、全く新しいものへと造り変えられるのです。
それをクリスチャンは「魂の生まれ変わり」、または「ボーンアゲイン(新生)」と呼んでいます。
ボーンアゲインした人々が、「本当の意味でのクリスチャン」なのです。
人は福音によって生まれ変わったならば、「キリスト馬鹿」であることを誇りとするようになります。
努力して宗教組織に従おうとするのではなく、喜びをもって、自発的にイエス・キリストの足跡を追って行こうとします。
その想像もできないほどの素晴らしい世界が、今、あなたにも無償で差し出されています。
ボーンアゲインしてみませんか?
#12
「あなたがたの髪の毛さえも、すべて(神に)数えられています。」
(マタイの福音書 10章30節)
近年、特にこの日本では、「神」という単語が日常レベルで人々の口から出て来ています。
「神がかっている」
「神対応」
「○○は神」etc....
「普通ではない凄さ」を強調するための形容詞として用いられる場合が殆どです。
あえて「神」を気安く使うことによって、ある種の快感すら人々は覚えているのかも知れません。
さて、ここで問題なのは、そのように「神」を取り扱う人たちにとっての「神」とは、果たして一体どういう存在なのか、ということです。
これは専門的に言えば「神概念」の問題です。
神概念の違いで、「神」の内容が異なって来るのです。
例えば、多くの日本人にとって、「神」と言えば八百万(やおよろず)の神々を思い浮かべるでしょう。
万物に「神」が宿る(山の神もいれば海の神もいる、トイレにもいる、という分業制の神概念)、という汎神論的神概念であり、この場合の「神」は「精霊」に近い存在です。
一方で、キリスト教国と呼ばれる国で生まれ育った人の多くは、「神=聖書の神:創造主」という一神教的神認識を一応は持っています。
しかし、「本当の意味でのクリスチャン」がキリスト教国の中にあっても少ないように、聖書の神を聖書が指し示す通りに受け入れる真の神概念を持っている人は少数派です。
真の神概念を持たない多くの人たちは、自身の創造主に対する全人的な畏怖や尊敬、愛、信頼がありません。
ですので、そのような人たちは、自称クリスチャンであっても、些細なことで、「Oh, my ○○!」などと恐れもなく簡単に神の名を口にしてしまうのです。
つまり、同じ「神」という単語を使っても、クリスチャンが言う「神」と、クリスチャンではない人が言う「神」とは根本的に異なるのです。
どういうことにせよ、聖書の神への信頼に裏打ちされた真の神概念を持たない限り、その人の神概念は「神=空想上の哲学的産物」という枠組みから抜け出すことはできません。
確かにそれであれば、「神などと実体のないものに人生を費やすのは空しいことだ」という結論を持ってしまうのも、ある意味では当然の帰結と言えます。
しかし、聖書の神は「人間が作った神」ではなく「人間をお造りになった神」です。
作品である私たちに実体があるのであれば、その作者にも実体があります。
そしてその作者である神は、私たち人間が想像すらもできないほどに、神聖であり、愛に富んだお方なのです。
しかもその神聖さと愛は、机上の空論ではない、具体性のあるものです。
神は具体的な神聖さと愛をもって、私たち人間一人一人を包み込んでおられるのです。
それは全て、イエス・キリストの福音に現わされています。
本来、聖書の神は人間の目には見えません。
しかし、今から約2000年前に、実際に誰もが目に見える形で、人間の姿を取って、私たちの住むこの世界に現れて下さいました。
神は何もできない赤ん坊の姿となってこの地上に誕生し、平均以下の貧しい環境の中、人間として受けるべき愛を親から受け、通常の成長の過程を歩まれました。
人間として成長し、30歳となった神、イエス・キリストは、具体的に、病人を癒し、苦しんでいる人を助け、徹底的に蔑まされている人、弱者に寄り添いました。
最終的には、あなたが罪の裁きを受けないために、あなたの罪を代わりに負って、十字架で苦しみ、死なれたのです。
しかし神は死では終わりません。
墓に葬られ、その3日後に肉体を持って物理的に、具体的に復活されました。
それによって、キリストを信じる者は全て、キリストと同じように死に勝利することが約束されたのです。
宇宙の作者である神は、その被造世界に対して主権を持たれています。
つまり神はその一存次第で、この宇宙を一瞬にして終わりにすることができるのです。
しかし聖書の神はその神聖さと愛の故に、そのようなことはなされません。
むしろ神は、本来は滅びるべき罪人を救うために、その主権を用いて人間の歴史に介入されました。
十字架という目に見える形で、具体的にその神聖さと愛の痕跡をこの地上に残されたのです。
聖書の神はあなた以上にあなたを知っておられます。あなたの髪の毛の本数すらもご存知です。
聖書の神はあなたの僅かな心の動きも見逃さず、あなたが傷付く時、悲しむ時は、あなた以上に傷付き、悲しんでおられます。
そしてあなたが喜ぶ時は、あなたとその喜びを共にしたいと願われるお方です。
聖書の神は常にあなたの傍らにおられます。
聖書の神は、あなたの罪、心の暗黒を全て知っておられて、尚もそのあなたを愛し、そのあなたのために十字架にかかられたのです。
聖書の神は現実以上に、現実的なお方です。
もしその神の神聖さと愛を否定するのであれば、これほど非現実的で空しいことはありません。
確かにこの世の中の、様々な宗教、哲学、神概念が乱立する中にあっては、「神に囚われない生き方」がいかにも合理的、また現実的であるかのように思えてしまいます。
しかしこの聖書の神を畏れ、愛し、信頼して、この神と共に歩む人生こそ、人間としての本来の人生であり、最も価値があることではないでしょうか。